アン・ドレイはバラの花びらを絞って採油するレバーを押す手を休めた。そして、筋肉質の太い腕で額の汗をぬぐった。
しかし、協定で許された休憩時間はあまり長くはない。
すぐにアン・ドレイはレバーを押す作業を再開した。
アン・ドレイという名前は、本来の名前ではない。ドレイは姓ではなく、文字通り奴隷であることを示す符号に過ぎない。そして、アンという名前も、ドレイになったときに赤毛だという理由で強制的に付けられたに過ぎなかった。敵対する都市国家の勇猛な戦士として名が知れ渡っていたので、その名を奪う必要があったのだ。
しかし、アン・ドレイはもう過去のことはあまりよく覚えていなかった。
故郷の都市国家で行われた果てしない訓練と模擬戦闘の数々。そして、御前試合。それらは全て、アン・ドレイの意志で行われたものではなく、ただ命令されるままに行ったに過ぎない。
それと比較して、このバラ採油場の奴隷労働には大した差はなかった。確かに、奴隷労働はきついのだが、限界を超えた訓練の日々と比較すれば楽なものだった。
粗末な食事や、質素な寝床も、劣悪な環境で戦える兵士を作るためのカリキュラム
で訓練されたアン・ドレイにはさほどの影響をもたらさなかった。
特に、深夜に叩き起こされる緊急即応訓練が無いことは、夜だけは安眠を保証されたことになる。むしろ今の生活の方が有り難いぐらいだとアン・ドレイは思っていた。
アン・ドレイが作業に没頭していると、ベルが鳴った。
仕事の開始と終了を知らせるベルだった。
アン・ドレイは仕事の手を止めて、ベルの方を見た。
そこに立っていたのは、ベル係のオス・カルーだった。
細身の小柄な身体に、凛々しい上級将校の制服を着込み、ビシッと背筋を伸ばした姿は惚れ惚れするような魅力に溢れていた。
アン・ドレイはしばしオス・カルーの姿に見とれた。
オス・カルーは、もちろん奴隷ではない。奴隷を支配する貴族の家に連なる者であり、このバラ採油場を経営する一族の一員でもあった。
しかし、このベルは貴族なら誰でも鳴らせるというわけではなかった。
協定によって承認されたベル係だけが、このベルを鳴らすことが許されるのだ。
そう……。
このベルは特別なのだ。
そもそも、奴隷というのは人権を持たない労働力であるが、かといって好き勝手に気分次第で扱って良いものではない。なぜなら、奴隷とは入手が困難な貴重な資源だからだ。もし、奴隷を獲得したいと思うなら、別の都市国家と戦争を行い、それに勝利し、勝利者の権利として相手の都市国家の市民を奴隷として連れて来なければならない。だが、それを行えば、多くの死傷者が出るだけでなく、もし負ければこちらが奴隷になりかねないリスクさえあるのだ。
それゆえに、奴隷を殺したり、過剰に労働させて寿命をすり減らさせることは厳禁されていた。
そして、このベルこそは奴隷に労働させる権利の象徴なのだ。奴隷は、厳格に規定された時間だけ労働させることが許される。その時間はこのベルで知らされる。奴隷は、ベルで知らされた時間外に労働してはならないのだ。そう……、労働してはならないという強い義務が課せられているのだ。
だから、ベルを鳴らすベル係は、特別な手続きで選任され、奴隷からも奴隷を使う側からも隔絶した別格の存在となるのだ。
オス・カルーは、アン・ドレイの視線に気付いて微笑んだ。
「今日も、労働ご苦労だった」とオス・カルーはねぎらいの言葉をかけた。
「もったいないお言葉です」とアン・ドレイは深く頭を下げたが、本心は違った。オス・カルーを抱きしめて愛の言葉を囁きたかったのだ。
といっても、アン・ドレイに男を愛する趣味があるという意味ではない。
実は、アン・ドレイはある夜、見てしまったのだ。
舞踏会から屋敷に戻ってきた馬車から、ドレスで着飾った美しい娘の姿をしたオス・カルーを。
その、あまりに綺麗な姿を見て、アン・ドレイは心を奪われた。
細く小柄な身体も、高めの声も、実はオス・カルーが女性だと考えれば全て辻褄が合う。彼女は、あくまで男装し、男として振る舞っているだけなのだ。
その理由は、何となくアン・ドレイにも分かった。オス・カルーの一族の中で、ベル係の試験を突破できるほど清廉潔白な性格を持っている者は、他にいないからだ。しかし、女はベル係になれない。どうしても一族からベル係を出そうと思うなら、オス・カルーに男装させるしかない。
しかし、アン・ドレイの気持ちはオス・カルーに届けることができない。
もちろん、貴族とドレイは愛し合うことが出来ない……という意味ではない。
事実として、貴族に気に入られた奴隷が愛人扱いされることは珍しいことではなく、奴隷が貴族にアピールすることも否定されてはいない。
だが、オス・カルーだけは別だ。
彼女はベルを使うのだ。
奴隷は、ベルに従うことを徹底的に身体に仕込まれている。
オス・カルーがベルを振れば、アン・ドレイは反射的に仕事を始めざるを得ず、とてもアピールなど出来ない。かといって、仕事の終わりを告げるベルが鳴ったとき、アン・ドレイは疲れ切っており、上手に凝ったアピールなどできるはずもなかった。
問題はあのベルだ。
アン・ドレイの結論はそこにあった。
あのベルさえ壊してしまえば、きっと自分の心を伝えられる。
そう結論すると、アン・ドレイは配置換えを願い出た。荷物運びの仕事に代わると、重い荷物を運びながらしばしば意図的に間違ってベルに荷物をぶつけた。
何回も繰り返せば、いつかベルは壊れるだろう……と思ったからだ。
そして、その目論見は的中した。
意外と早く、僅か10回ほど荷物をぶつけただけで、ベルは砕けてしまった。
バラ採油場は開店休業となった。
ベル抜きでどのように労働すれば良いのか、貴族も奴隷も知らなかったのだ。
やることがなく、誰もがぶらぶらと過ごした。
アン・ドレイは、バラ畑の中でじっと咲き誇るバラの花を見ているオス・カルーに話しかけた。
「オス・カルーさま」
「なんだい、アン・ドレイ」
「実は、私はオス・カルーさまの秘密を知っております」
オス・カルーは明らかに動揺した。「いったい何を知っているというのだ」
「舞踏会の夜、綺麗なドレスを着て帰ってきたのを見てしまいました」
「い、いかん。あれは見てはいけないものだ。そ、それは絶対に知られてはいけないことなのだ」
「誰にも言う気はありません。それに、恥ずかしがることはございません。私は、その……。あの姿を見て、オス・カルーさまに惚れてしまったのです。抱きしめ、愛し合いたいと思ってしまったのです」
「アン・ドレイ……」
「この気持ちは本気です!」
「そうだったのか……。ずっと私を見る視線が熱いと思っていたのだが、そういうことだったのか。私の趣味を理解してくれるとは嬉しいぞ。本物の女性よりも美しい女性に化ける女装趣味の素晴らしさを!」
「じょ、女装!?」
アン・ドレイは衝撃を受けた。
女装……、それは男が女の服を着る行為を意味していた。つまり、オス・カルーの秘密とは男装ではなく女装だったのだ。
「さあさあ」とオス・カルーはアン・ドレイに迫った。
「だ、ダメです。私には男と愛し合う趣味はありません!」
「もう止められないぞ。おまえのような逞しい男に抱かれたいとずっと思っていたのだ」
「へっ!?」
思わずアン・ドレイは素っ頓狂な声を上げた。「私は女ですけど……」
「な……。なんだって? 確か敵対都市国家の最強戦士だったと聞いたが……」
「確かに私に勝てる戦士は他にいませんでしたが、私はもともと後宮警護の女だけの専属部隊の所属ですから……」
「し、しかし……」
「そもそも、奴隷になってから赤毛の女の子にちなんでアンという名前を付けられたことからすぐ分かると思っていたのに。アンって、女性の名前でしょう?」
真っ白になったオス・カルーはその場に崩れ落ちた。
そして、アン・ドレイは気付いた。
そうか、「オス・カルー」というぐらいだから、この人は「オス」だと気付かなければダメだったのか……。
さて、この二人、実はこの先いろいろな経緯の後、最後には結婚することになるのだが、それはまた別のお話である。
(遠野秋彦・作 ©2007 TOHNO, Akihiko)
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