「さて、あとから気付いたことがある」
「それはなんだい?」
「コクリコ坂という映画は、高低差と遠景近景を活かした街の描写が特に優れている」
「そうなの?」
「たとえば、主人公の家は、海、坂、間近の主に3つの視点から見える。その際の見え方は同じではない。しかし、一般的にアニメでは描き方が単調になりがちだ」
「それってどういうこと?」
「実は監督の経歴を見てあることに気付いた」
宮﨑 吾朗(みやざき ごろう、1967年1月21日 - )は、日本のランドスケープアーキテクト、映画監督。
「ランドスケープアーキテクト?」
「よくはしらんが、土木と建設をまたがる街の景観設計に関わる人だな」
「えっ?」
「だからさ。全体として都市が景観として設計されているのがコクリコ坂。映画の出来は、アリエッティの方が上だし、地形の高低差などの描写もアリエッティは面白いのだが、全体としての景観の設計ができていない。だから、アリエッティでは家のシーンと川のシーンは分離した別物として描かれてしまう。しかし、コクリコ坂では坂の下から見える自宅が描かれる」
「へぇ。そこはコクリコ坂の勝ちってことか」
「もっと言おうか」
「うん」
「実は耳をすませばも、アリエッティも坂のアニメなんだ」
「えっ?」
「でもさ。坂をどこまで上手く使ったのかといえば、そこは怪しい」
「どういうこと?」
「アリエッティでは、家があって坂を下って川があるんだけど、そこは経験者が理屈で読み取れる地形であって、分かりやすい景観ではない。耳をすませばでは、2人で初めて行う共同作業が自転車で坂を上がるという行為なのだが、ヒロインが自転車を押していてはあまり色気が無い」
「うーむ」
「だからさ、コクリコ坂の場合、少年とのデートは下りで行われる。下りならスピードが出るからブレーキで減速すると後席の少女は勢いで前席の少年に身体を密着させてしまう。これは色気のあるシーンだ」
「それは、監督は坂が分かってるってこと?」
「おそらくそうだ。だからさ、WikiPediaに『監督を息子の宮崎吾朗に決定したのは吾朗本人が自ら希望した為である』と書いてあるけど、なぜこれをやりたいと彼が思ったのかといえば、『僕がいちばん坂を上手く描けるんだ』という気持ちがあったからではないのかな」
「『借りぐらし』には反応しなくてもコクリコ『坂』には反応したってことだね」
「うん。だから、坂あるいは地形の高低差の描写は歴代ジブリ映画の中でも特にいいと思うよ」
オマケ §
「耳をすませばの場合、自転車二人乗りの先に待っているのは朝日とプロポーズだ」
「うん」
「しかし、コクリコ坂の場合、肉屋とコロッケだ。告白は電停で行われる」
「それがどうした?」
「この差はでかい」
「どうでかいの?」
「崖の上から日の出を見るなんてロケーションが近所にある人はあまり多くないし、ましてそこで見た人はもっと少ない。そういう場所でプロポーズした/された人も滅多にいないだろう。そういう意味で感情移入は難しい描写である。ところが、肉屋での買い物になるとグッと身近になる。コロッケを買って食べるというのは、いかにもありそうな話であり、感情移入しやすい」
「えっ?」
「つまりさ。なんだか凄い場所で彼からプロポーズされたことと、ありきたりの普通の肉屋でコロッケを彼から買ってもらったことは等価なんだよ」
「どうして?」
「後者の方が見ている側の『分かる』感がずっと高いからさ」
「うーむ」
「夜の電停での告白も、やはり分かる。気持ちが昂ぶって言わないとならない時、場所がどこかは関係ない。イタリアで気持ちを熟成してきた少年なら、遠くまで少女を連れて行くゆとりもあるだろうが、まず普通はそこまで行かない。言いたいときが言うべきタイミングだから電車が既に来ている電停で言っちゃうわけだ。その方が気持ちとしては分かる」
「それってどういうこと?」
「だから、耳をすませばの告白は物語に決着を付ける必要があるから崖の上のプロポーズとして存在する。これが無いと物語が終われないからだ」
「うん」
「でも、自転車移動も電停もコクリコ坂では中盤の見せ場として存在する。しかも、告白しても物語は終われない。本当の兄妹なら結ばれない告白だからだ」
「それってどういうこと?」
「耳をすませばのプロポーズは客が映画から離れる寸前の少し他人行儀の出来事であるのに対して、コクリコ坂の告白は客がまさに感情移入している絶頂期に行われるという意味で、とても重くてグッと来る」
「では、君はどう思うんだい?」
「この部分に関しては、凄くいい映画だ。光る点のある映画だ」
オマケ2 §
「昔、少年ドラマシリーズに『コロッケ町のぼく』というのがあってねえ」
「それで?」
「コロッケを買い食いするライフスタイルを持つ下町の子供の話だった」
「それがどうした?」
「コロッケなんてつまらない食べ物だと思っていたが、コロッケを買い食いするのは格好いいことなんだ、という価値観を知って目から鱗が落ちた。それからコロッケは好きな食べ物になったよ。実は普通のトンカツより好き」
「わははは」
「だからさ。コクリコ坂見ながらそれを思い出してしまったよ」
「そうか。だから少年が2つコロッケを買って、1つ少女にくれると嬉しいわけだね」
「そうだ。そこで、もっと上等な食い物を買ってはダメだ。ここはコロッケだからいいんだ」
「なるほど。ジャストミートだね」
「そうだ。肉屋だけにミートだ」
「なんか違う」
「宮﨑 吾朗監督ももしかしたら子供の頃に『コロッケ町のぼく』を見てるかもしれないしね。3歳年下なら、同じドラマを見ている可能性はあり得るだろう。監督は1967年生まれでドラマは1973年だ」
「見ても記憶に残ってないかもよ」
「かもね。おいらも中身は覚えてない」
オマケ3 §
「この映画は欠点を列挙していけばいくらでもリストできるんだ」
「そうか」
「でもさ。それに負けない光る点があるからいいんだ」
「いいのか」
「この映画ならではの強い魅力があれば、それは映画が存在する理由になる。他の映画では見られないわけだからね」
オマケノート §
「どうでもいいことを思い出した」
「なんだい?」
「父親の宮崎駿は、雑想ノートでコロッケにソースかけてる自分を描いたことがある」
「コロッケつながりかい」
「コロッケ親子だ」
「意味があるのか?」
「ワカラン。でもさ、コロッケに親子のアイデンティティがあった」
「宮崎ジュニアに期待するってこと?」
「いいや。見ている時は、宮崎駿の息子なんてことは全く意識しなかったよ。作品そのものに十分に引っ張っていける力がある。だから、既にまったくの別人、独立した違う人としての宮﨑吾朗監督に期待してるよ」
「それってどういうこと?」
「本人の視点が違うから見所も違うってことだ」
「たとえば?」
「たとえば、ポニョにも船は出てくるが、描写は全く違う。ポニョは行き交う船と陸地の2者関係であり小さい船は水没した陸地の探索用になってしまうが、コクリコ坂になると船と陸地の中間に小さな船がいくつも出てくる」