「というわけで、寝坊して焦ったが無事にTOHOシネマズ府中にて、初日第1回上映を見てきたぞ」
「客の入りはどうだった?」
「比較的小さめのスクリーンで、おおざっぱに見て約半分の席が埋まっていた。勢いの予感はある」
「君の感想は?」
「もう1回見たら、気に入らない部分が目立って嫌になっちゃうかと思ったが実際は逆であった。気付かなかった部分、忘れていた部分を山ほど見せられた」
「えっ?」
「もっと凄い映画だってことを思い知らされたよ」
「そんなに?」
「たぶん実際の上映時間の2倍以上の中身がある。とても密度が濃い」
おおざっぱなまとめ §
「どこがどう凄いんだよ」
「先に簡単にまとめよう。前夜にゲド戦記を見て、今日コクリコ坂を見て良く分かった。宮崎吾朗監督というのは、父親と違う以下の3つの特徴を持つ」
- 映画がよく分かっている
- デフォルメが少ない (しかし象徴的表現はバシバシ入れる)
- 景観設計に優れる
「どういうこと?」
「宮崎駿はデフォルメが上手い。そこで映像に奥行きが出る。ところが、デフォルメが多いと描写が記号的になりがちになる」
「記号的か」
「その点で、宮崎吾朗監督作品はその記号性がより希薄だが、映像的に記号性が下がっていても象徴的な表現が深く入ってくるので薄っぺらくはならない。方法論は宮崎駿はなく押井守に近い」
「難しいね」
「それからさ、映画は短く作るのが難しいんだ」
「どうして?」
「開始させてやることを全部やって終わらせる必要があるからさ」
「それがどうした?」
「コクリコ坂は比較的短い上映時間91分でやるべきことを全てやって終わっている。映画をきちんと分かっていて、構成力が高い証拠だ」
映画の問題 §
「たくさんの人が集まってカルチェラタンを救うのは、ある意味で集団作業であるアニメの製作に重なるのだが、それとは別に映画とも重なる。実写であろうとVFXであろうと、映画は多くの人が1つの目標に向かって協力することで完成するのだ」
「それが、映画が分かっているという話につながるのだね」
「かもしれない。そして重要な問題がもう1つ」
「なんだい?」
「ファンタジーは設定を説明する必要があるので長くなりがちだ」
「言いたいことを言うだけなら説明が少なくて済む現実世界の話の方がいいってことだね」
「そうだ。誰も朝鮮戦争を説明しなくてもコクリコ坂は成立している」
「じゃあ、宮崎吾朗監督は有能なのかな?」
「この時間できっちり映画を始めて終わらせているのだから、有能なんだろう」
ここで中断の問題 §
「ここで、実は自転車修理に持っていく必要が生じて感想を書くのが途切れた」
「それは残念だね」
「ところがどっこい。修理待ちの時間に本屋で時間を潰したらコクリコ坂のシナリオの文庫本が出ていて買ってしまった」
「えっ?」
「どこまでが宮崎駿+丹波圭子の仕事で、どこからが宮崎吾朗監督の仕事が区分が丸わかりだ」
「まさか」
「たとえば、左官屋の娘の下りはシナリオに存在しない。おそらく宮崎吾朗監督の仕事だ」
左官屋の娘の問題 §
「美しい……、じゃなくて、左官屋の娘は主人公を含む仲良しトリオのメンバーの1人で、実は序盤から出ているキャラの1人であった。少年が飛び込むときに一緒に見ている」
「おまわりさん、サブキャラばかり見ているマニアがここにいます!」
「おいおい」
「じゃ、サクラ大戦で好きなのは?」
「由里君」
「SPACE BATTLESHIP ヤマトで気になるのは?」
「後ろでうろうろしている佐々木と太田」
「Zガンダムで好きなのは?」
「成長したキッカ」
「ラピュタで好きなのは?」
「親方のおかみさん」
「もののけ姫で好きなのは?」
「おトキさん」
「おまわりさん、サブキャラばかり見ているマニアがやっぱりここにいます!」
アンテナの問題 §
「カルチェラタンに最初に入った時、発音の悪いジャパニーズ・イングリッシュで無線通信をしている部屋がある。無線部だろう。いや無銭部か?」
「それで?」
「英語を使っているということは、オーバーシーのDXなんだろう」
「意味分からないよ」
「ということはHFだからね。どこかにでかいアンテナがありそうじゃないか」
「意味分からないよ」
「もちろんVHFでもEスポでオーバーシーって可能性はあるけどね」
「意味分からないよ」
「時代的に1963年だからまだ430は未開拓だろう。まして1.2G。UHFという可能性はもっと低そうだ」
「意味分からないよ」
「というわけで、カルチェラタンの屋根を見ると、なんとヤギとGPと、十時のフレームに四角形にワイヤー張ったの、なんといったっけ。おそらく計3本上がってる。他にアンテナが無いとも言えないが、これらなら比較的波長が短いので21MHz帯通信をしてたのじゃないかな。ポニョの通信シーンがけっこういい加減であることから考えると、ここは宮崎吾朗監督のこだわりどころだろう。実際にシナリオにも無線部の出番は無い」
「意味分からないよ」
「もし、7MHzとか3.5MHzの通信もやってるなら裏庭に逆Vアンテナとかあるかもしれないよ」
「意味分からないよ」
地名の問題 §
「どうも、地名は架空っぽいな。ボンネットバスの行き先は『元山下』で、告白する電停は『西の橋』、そこにくる市電の行き先も『元山下』なのだが、どうも横浜市電の路線図を見ても該当する電停が無い」
「架空ってことだね」
「子供の頃に住んでいた六郷も、良く分からない。六郷用水とかの六郷なら分からなくも無いが、位置的に横浜からは遠い。まあ逃避行だから遠くて当たり前と思うならいいのだが」
「ひぇ~」
「それから、主人公達が直談判に行く東京は新橋のあたりかねえ。安い飲み屋街があるのは新橋っぽい。けして銀座っぽくはない」
「そうか」
「ただ、山手線の高架が見えるから新橋、有楽町のあたりかという気がするけどね」
売店の問題 §
「気に入ったので、プログラムでも買って帰ろうかと思ったら売店のレジが長蛇の列で諦めて帰ってきたよ」
「夏休みが近い土曜日の映画館は昼近くになれば人で溢れるわけだね」
人物描写の問題 §
「実は今日になって気付いたが、人物描写が凄くいい」
「それはアニメーターの問題?」
「ジブリのアニメーターは優秀だ。心の機微を描ける力がある。しかし、腕があることと描けることは違う。演出意図に逆らう作画はできないからだ」
「えっ?」
「そういう意味で、演出力も高い映画だと思うぞ」
「具体的には?」
「主人公は最初笑わない。最初に微笑みが出てくるのは、下宿人と朝の挨拶をするときだが、これは営業スマイル。別に嬉しいわけじゃない。作り笑いなのだ。口を開けて最初に笑うのは、カルチェラタン編集部で生徒会長が笑いを取ったとき。でも、これでも笑わせたのであって、自分から笑ったわけではない。実は最初に本当の意味で笑うのはコロッケをおごってもらった後なのだ」
「へー」
「あとさ。メガネの下宿人。実は寝ている時の素顔がドキッとするほど色っぽくて大人っぽいんだ。でも、メガネを付けるとダサダサ女になる」
「少女漫画のパターンじゃ無いか」
「そうだ、実は王道パターンをさりげなく入れてあるんだ」
「他には?」
「母親に質問しに来た主人公。最初に母親が一瞬いやーな顔をするのだ。話をしたくない嫌な話を持ち込まれて迷惑だって感じだ。でも、母親という立場上拒否できないから笑顔で迎える。しかし、泣いた娘に抱きつかれてやっと相手の思っていることが理解できて抱き直すのだ。ここから微妙に母親の表情が変わっちゃうのだ」
「そうなのか」
「あと思い出の家族写真でもみんな笑ってない。自然と笑みが漏れるような時代じゃないってことだろう」
「それが時代か」
「陽気に騒いでいるけど、底辺はとても悲惨な時代なんだよ。それがちらりちらりと見えてくるいい映画だ」
「人間観察も優れているってことだね」
「だから描写が記号的にならない」
「そこがポイントだね」
「記号の羅列なんてアニメを今更見たいのかってことだ」
「宮崎駿は記号性が希薄な希有なアニメーション作家じゃなかったのか?」
「それも是だが、その先がある」
「その先か!」
実写の問題 §
「ああそうか、やっと見えてきた」
「なんだい?」
「宮崎駿は、実写の映画をおそらく監督できない」
「どうして?」
「描写にどうしても記号性が残ってしまうからだ」
「ならば宮崎吾朗監督ならできるってこと?」
「そうだけど、そこは裏から読む必要がある」
「えっ?」
「押井守流に言えば、もうアニメと実写の境界は無いんだ。そういう世界で映画を撮るなら、アニメと実写の境界は無いものとして扱える人材が必要とされる」
「えっ?」
「宮崎吾朗監督の資質から行けば、実写でも映画は撮れるだろうが、それが今の時代に必要な資質なんだろう」
「ひぇ~」
ピッコロさんの問題 §
「だからさ。孫悟空の子供は孫悟飯だが、実は孫悟飯の師匠はピッコロ大魔王なのだ」
「は?」
「だからさ、宮崎駿の子供は宮崎吾朗だが、実は宮崎吾朗の師匠は押井守だったのだ。わっはっは」
「ひぇ~」
実写の問題 §
「というわけで、宮崎吾朗監督も低予算で実写映画を1本撮ってくれないかねえ」
「それでどうするの?」
「押井守は実写映画(?)の作中で鈴木敏夫プロデューサを殺している。ならば宮崎吾朗監督には是非とも作中で宮崎駿が死ぬ映画を撮って頂きたいものだな。わっはっは」
「宮崎駿には死んでほしいの?」
「まさか。まだ死ねるか!と宮崎駿にも凄い映画をまた作って欲しいぞ」
実写の問題 §
「というわけで、宮崎吾朗監督ももっと大胆な作品を撮ってくれないかねえ」
「もっと大胆?」
「恐竜惑星のように、実写とCGとアニメが合体したような映画。上手くできれば、秩序が変わるぞ」
「できると思う?」
「技術的にはとっくにできるし、後は才能の問題と営業の問題だ。そして才能の問題は、おそらく宮崎吾朗監督でクリア出来る」
シナリオの問題 §
「宮崎駿のシナリオはこの映画にとって追い風であると同時に向かい風でもあると思う」
「というと?」
「構成上のまずい点を追求すると、どうもこの宮崎駿のシナリオにいきつく感じがあるからだ」
「えっ?」
「どうも、暗黙的に宮崎駿は自分の流儀で映画を作ることを前提にこのシナリオを成立させているように思えるのだが、流儀の違う他人では上手く噛み合わない部分が出てくる。それ以前に宮崎駿ってシナリオはあまり上手いと言えないよね、という部分もある」
「上手くないの?」
「そうだ。どうしても物語の構造に収まりの悪い部分が出てくるケースが多い」
「パターン通りに映画を作ると客に先を読まれるからパターンを崩すってことじゃないの?」
「その話とは微妙に違う話なんだ。たとえば、パターンを壊すっていうのは終わったと見せかけて実は更にどんでん返しが待っていた、というような構成を意味するわけだが、実際は上手く終わっていないケースも多い」
「たとえば?」
「有名なところではトトロ。実は入院した母親という問題に決着しないまま本編が終わってしまう。行方不明の妹が見つかったからハッピーエンド風だけどね」
「エンディングで母親は戻ってくるじゃん」
「そこは描写が慌ただしすぎなんだ」
「ありゃりゃ」
「それにエンディングは帰っちゃう客もいるからね」
「まあ確かに」
「逆に、宮崎吾朗監督がフリーハンドで作ったゲド戦記は脚本に無理が無い。宮崎駿と原作者と原作ファンがぶーぶー文句を言っているが、原作との整合性を無視すればシナリオのバランスはいい」
ジブリの問題 §
「結局、アリエッティも良かったし、ジブリの後継者難問題は一応決着したと言って良いのではないだろうか」
「どういうこと?」
「宮崎駿監督と高畑勲監督が両輪になって映画を作ったように、宮崎吾朗監督とアリエッティの米林宏昌監督が映画を作っても何とかなりそうだ」
「そう上手く行くのかな?」
「行かないかも知れないが、ともかく名前は出た」