「もうちょっと具体的に語れるようになってきた感じだ」
「それはなんだい?」
「まず、シナリオを見ると、絶句するほどシナリオに忠実に映画を作っていることが分かる」
「そうか」
「コロッケも、醤油ドボドボも、飛び降りも、カルチェラタンも、引っかかると長い哲学野郎もみんなシナリオに出てくる」
「そうか。じゃあ、この映画が面白いのは宮崎駿の功績だってこと?」
「そうとも言えない。なぜなら実際に見ると宮崎駿アニメに見えないからだ」
「えっ?」
「だからさ。このシナリオはポニョクラスの90分のアニメのために書かれたものなんだよ。でもさ。それにプラスアルファして宮崎吾朗監督が自分の色を入れてしまったのだ。だから、3時間分ぐらいの中身があるという印象はそういうことだ。90分のシナリオ分の中身を入れた上で、自分のカラーを90分入れてあるからだ」
「ひぇ~。でも、そんなことができるの?」
「できる。ビジュアルや演技の面では文字として書かれたシナリオに無い部分だからフリーハンドで描けるからだ」
「それに意味があるの?」
「ある。それが本題だ」
中景論 §
「では宮崎駿と宮崎吾朗監督のビジュアル面での最大の差とは何か。やっと見出した。それが中景の有無だ」
「中景?」
「遠景と近景の中間のことだ」
「どういうこと?」
「宮崎駿のビジュアルには基本的に近景と遠景しかない。中間がぽっかり欠落している」
「えっ?」
「でもさ。それはアニメ全体に言えることなんだ。たいていのアニメのビジュアルは中景がなく、近景と遠景で設計されている」
「どうして?」
「システム上、アニメは背景とセル画で構成される。背景が遠景で、セル画が近景だ。2つは質感が違うから隣接させるべきではなく、必然的に中景は排斥される」
「むぅ。ならどうして宮崎吾朗監督は中景を描けるのさ」
「ランドスケープアーキテクトがデザインする景観は物理的に連続しているから、近景から遠景までが実在する。もちろん、中景は存在する」
「えっ?」
「しかも、映画監督として最初に撮ったゲド戦記は2006年で、既にCGの時代に入ったあとだ。CGの時代というのは、近景のセル画も遠景の背景画もデジタル化されて同じまな板の上で料理できる時代だ。つまり、物理的制約から中景を排斥する理由が希薄化される」
「でも、どうかな」
「なんだい?」
「たとえばさ。走っている繭ちゃん、向こうで飛んでいるアルカディア号、空というビジュアルを考えたとき、繭ちゃんが近景でアルカディア号が中景、空が遠景と見なせないか?」
「一見最もらしい解釈だがそれは違う」
「どうして?」
「繭ちゃんとアルカディア号はどちらもセル画であり近景なんだ」
「空は遠景ってことだね」
「そして重要なことは、近景と遠景の間に何も無いという断絶感なんだ」
「それが古典的アニメのビジュアルの特質ってことだね」
「もちろん、遠景がセル画であったり、近景が背景がであったりすることもある。表現は様々だ。それに中景を描いた古典的アニメも無いわけではないだろう。ただ、それを描くと凄く大変ということだ」
まとめ §
「それで結局、中景が描けるとどうなの?」
「実写映画を撮れる。あるいは3DCG映画も撮れる」
「えっ?」
「だから、既存のアニメの演出家が行きにくい領域に行ける可能性を孕む」
「未来に期待ってことだね」
「そうだ。オヤジの行けない場所に行けるかも知れない」
「どういうこと?」
「立っている世界が最初から違うということだ」