「というわけで、試写会でもらった入場券がやっと意味を持った。池袋西武ギャラリーのコクリコ坂から原画展がやっと始まったので見てきた」
「早いね」
「放っておくと気温が上がりそうだから、早めに行くに限ると思ってね」
池袋ダンジョン §
「会場はどこだい?」
「池袋西武ギャラリー」
「池袋の駅前の西武デパートだね。交通便利で簡単に行けるね」
「と思うだろ?」
「えっ? 違うの?」
「池袋の地下街はダンジョンだ。迷宮だ。魔窟だ。そして、西武デパート本体のビルではなく、そこから地下通路を通らないと行けないビルにあるのだが、地下街でとてつもなく迷ったぞ」
「えーっ だって君は高校時代2年間池袋に通ったんだろ?」
「そうさ。でも、そんな知識は無意味になるほど池袋は変わり果てた」
客の入りの問題 §
「初日の午前中なんて、混むのじゃないか?」
「人は多かったが許容の範囲内だった。人が集まっていてなかなか見られない箇所もあったが、少し待てば見られた。ほとんど問題は無かった。集客にも力を入れていたようで、どちらかといえば人が集まりにくいイベントであったようだ」
「それだけ面白くないイベントだってこと?」
「ははは。とんでもない。この手のイベントとしては、これまでの平均よりも2倍の密度はあって、凄く見応えのある中身だったよ」
「どうして人が来ないの?」
「2世はダメだと決めつける風評被害だろう」
「それが事実だとどうやって証明する?」
「そうだなあ。難しい要求だが。強いて言えば、混み具合が均等だったということで1つの証明になるかも知れない」
「どういう意味だい?」
「普通の美術展は入り口付近が混む場合が多い」
「どうして?」
「最初は熱心だが疲れて飽きてくるからだ。だから混んでいる美術展は最初の展示をすっ飛ばして途中から見ると快適であることが多い」
「ひぇ~」
「でも、今回のコクリコ坂原画展は最初から最後まで混み具合が均等だった。客が同じ熱心さを最後まで維持できた証拠だ」
「それってどういうこと?」
「美術展としては成功だろう」
中身の問題 §
「具体的な中身はどうだい?」
「原画展となっているが、実はアニメ的な意味での原画の展示は無い」
「えっ?」
「美術と美術ボードが中心。あとはキャラのイメージのスケッチとか、膨大に展示されてた」
「それでも凄かったの?」
「そうだ。半端ない凄みを感じた」
「それは人によるのじゃない?」
「そうだ。最初から2世はダメ、オヤジに劣ると決めつけた奴が見ても単に見ただけで何も感じないで出てくるだろう」
記号の問題 §
「それだけでは何が凄いのか良く分からないな」
「うん。良い意見だ。ポイントはいくつかあるが、特に記号の問題が大きい」
「どういう意味?」
「実際の映画の映像は記号性が希薄だが、イメージボード、美術ボード、キャラのスケッチのレベルではかなり記号性が高い。つまり、ジブリのスタッフは記号性の高い映像を描くことに慣れていて、そういう水準で無意識的に描いているのだが、それは実際の映像になる段階で淘汰されていく。では、誰が淘汰したのか。生粋のジブリ人には淘汰できない。とすれば、淘汰したのは宮崎吾朗監督としか考えられない」
「そんなに?」
「キャラの表情の描き方とか、まさに記号って感じのイラストがかなりあったぞ」
「まさか」
「だからさ。この原画展では何も語られていないが、絵を見ていると全スタッフが無意識的に持つアニメ的な記号性と戦った宮崎吾朗監督の激闘記が見えてくるのさ」
「激闘記か!」
「まわり全部が敵ばかりだからな。壮絶だ」
「えー」
「しかもゲド戦記で1回やってるのにみんな既に忘れている」
「ひぇ~」
The Art of From Up On Poppy Hillの問題 §
「出たところで、山ほどジブリグッズを売っていた」
「グッズか」
「そこで、The Art of From Up On Poppy Hillを売っていた」
「なんだいそれは」
「"The Art of"シリーズのコクリコ坂編だよ」
「もう出てるのか」
「出ていない。先行販売だと言っていた。一般の販売開始は2011/7/27らしい」
「ひぇ~」
「実はそのとき、千円札が3枚とあとは小銭しか持ってなかった。前日に別件でかなりの出費を強要されたからだ」
「それなのに買ったのかい?」
「そうだ。何かトラブルが起きたら手持ちの所持金不足に陥りそうでヒヤヒヤしながら帰ったぞ」
顧客は誰か §
「大金出して買って良かった?」
「かなり良かったぞ。まだ全部見てないがな」
「どうして?」
「かなりいろいろなことが分かった」
「というと?」
「近藤勝也のインタビューで出てきたが、鈴木敏夫プロデューサと宮崎駿が実質的にクライアントであると」
「えっ?」
「あと、原画展で坂本九に対する九ちゃん愛が鈴木敏夫プロデューサのものだと分かった」
「ええっ?」
「だからさ。2人の要求は可能な限り入る。特別な理由が無い限り入る。特別の理由というのは、冒頭でLSTが沈むと暗い映画になるから後に回すというようなことで、そこまで重要な理由が無ければ全部飲む。映画の中で九ちゃんも歌う。舞台も良く分からないけど宮崎駿の要求通り1963年の横浜で決まる。でも、横浜っぽくない港町になる。これも宮崎駿の要求通り」
「なるほど。でもさ。それだと宮崎駿アニメにしかならないじゃん」
「そうだ。単にオヤジが年を食って仕事がしにくいから息子にやらせただけで、息子のカラーなんぞ出る余地も無い」
「だろ?」
「でも、実際の映画は宮崎駿アニメには見えない」
「どうなってるんだよ」
「その秘密も分かった」
吾朗ワールドの問題 §
「宮崎吾朗監督のインタビューのページで分かったことは2つある」
「それはなんだい?」
「渡された情報に対して宮崎吾朗監督は『中間に何があるのだろうか』と考えた」
「中間って近景と遠景の中間の中景ってこと?」
「それもある。他の要素もあるだろう。演技の中間とかね」
「そうか」
「そしてもう1つ。カット割りが速いんだ。つまりカット数が多い」
「えっ?」
「つまりさ。この2つが秘密だったんだよ」
「ええっ?」
「宮崎吾朗監督は、90分の映画に相応しい内容を鈴木敏夫プロデューサと宮崎駿から押し込められたわけだ。普通はこれで手も足も出ない」
「そうだね」
「ところがさ。そこには死角があった。1と2が要求されたとき、アニメ的センスで解決しようとするともう何もできない。しかし、写実的センスを持ち込むと1.5という要素が浮かび上がってくるんだ。誰も要求していない世界だから、そこは宮崎吾朗監督がフリーハンドで描ける」
「なるほど」
「更に、カット割りを早めることで、鈴木敏夫プロデューサと宮崎駿が求めるものを全て盛り込んだ上で、自分なりの映像をたっぷりと入れることができるのだ」
「えっー」
「結果としてできた映像は、おそらく鈴木敏夫プロデューサと宮崎駿を満足させていると思う。鈴木敏夫プロデューサが求める九ちゃんもたっぷり歌っているし、宮崎駿のシナリオはほぼ完全に活かされている。でも見ると実際の映画は宮崎吾朗作品なんだ」
離散とアナログの問題 §
「それってどういう意味なんだろう」
「デジタルは一般的に離散であり、解像度よりも低い情報は扱えない」
「1と0の中間は無いってことだね」
「アナログは中間がある」
「アナログの方が素晴らしいってことだね」
「そうとも言い切れない。アナログは簡単に劣化するしノイズも乗りやすいからね。無限の解像度は得られない」
「それが言いたいこと?」
「いやいや。本題に進むぞ」
「頼むよ」
「ポニョというのは、デジタルの否定なんだ」
「CG使わないで手描きで勝負の世界だね」
「そうだ。つまりオヤジは離散的であることを否定して、アナログ的な世界を良しとした」
「うん」
「ところが、今回宮崎吾朗作品が持ち込んだ実写的な思想はだね。アニメも十分に離散的だという事実を突きつけたんだ」
「えっ?」
「だからさ。アニメはセル画と背景の中間には何も無いんだよ」
「えーっ。そんなこと誰も問題にしてないじゃん」
「アニメ頭になっていればそれが常識になっちゃうからね。誰も問題にしない」
「でもアニメ頭になっていない部外者は問題にしちゃうの?」
「そうだ。実写なら『中間に何も無い』のはおかしいわけだ。というか、カメラのフレームに収まる何もかもが写ってしまうのが実写の世界だ」
「そうか」
「だからさ。CGという離散的な世界を否定して古典的なアニメの世界に回帰した宮崎駿が、実はアニメも既に離散的だとしてダメ出しを食らってしまったのがコクリコ坂の本当の意味じゃないかと思う」
GPではない §
「余談を書くぞ」
「なんだい?」
「カルチェラタンの屋上に3つのアンテナがあって1つはGPと書いたがあれは間違いだった」
「えっ?」
「1枚だけ。アップの細かい絵があった。GPに見えたのは避雷針らしい。東西南北の方角を示す線が4本横に伸びている。遠景だと東西南北を示すEWSNの文字が描かれていないので、結果としてGPに見えただけみたいだ」
「そうか」
「あと、ヤギも怪しい」
「ええっ?」
「ヤギならエレメントの長短が単調なはずだ。片方が短く片方が長い。でも、中間が短く両端が長い四エレメントなんだ。たぶんヤギではない」
「そうか」
「でもアンテナの一種ではあるのだろう。アンテナは2本という解釈でおそらくいいだろう」
新橋の徳丸さんの正体 §
「理事長の名前は徳丸さん。事務所は新橋でした」
「それがどうした?」
「やっと分かったよ。真抜けなこった」
「意味があるの?」
「新橋の徳間さんだったのだよ」
「えっ?」
「ジブリの初代社長は新橋の徳間書店の徳間康快さんだからな」
醤油ドボドボ問題 §
「醤油ドボドボはシナリオの段階で既にある」
「そうか」
「コロッケにソースをドボドボかける描写を過去に描いている宮崎駿らしい」
「なるほど」
「ところがさ。このシーンに宮崎吾朗監督は追加をしているんだ」
「どんな追加?」
「弟が『ぼくも』と言って真似をする」
「えっ?」
「ドボドボはオヤジの趣味だろうが、それを真似するという描写は息子の発想だろう。つい、真似をしたくなる心理が分かるのだろう」
「本当に?」
「実はさ。この原画展で面白かったことその2。宮崎吾朗画にも記号的に描かれた絵が含まれること。つまり、自分のポリシーを曲げて周囲のみんなが描いているような絵、オヤジも描いているような絵を真似しそうになったこともある。実際に何かは分からないが、何やら試行錯誤があったことは本人も述べている」
「なるほど。ドボドボを真似してダメ出しを食らう描写はそういうことなんだね」
「本当かどうかは知らんぞ。思いついただけだ」
「おいおい」
「この映画、第1印象を裏切る新事実が続々出てくるから面白い、とも言えるんだぜ」
「ひぇ~」
「でもこの映画、もう1回みたいよな」