謎のアニメ感想家(笑)、翼の騎士トーノZEROのアニメ感想行ってみよう!
今日のファフナーの感想。
サブタイトル §
第15話 「記憶 ~さけび~」
あらすじ §
竜宮島は人類軍に占領されます。
狩谷はコアを探しますが見つかりません。
一騎の母は、一騎にマークザインを渡して消えます。
しかし、母は近くでもう1体のフェストゥムと会話をしています。本来1つであるはずのフェストゥムが会話するのはおかしいと母は指摘しますが、相手に食われます。
一騎が乗ったマークザインは地上に出ますが、フェストゥム達と1つに同化していきます。
そこで、一騎は、総士の片眼を失わさせた思い出の世界に向かい合います。
通信機から聞こえる「あなたはそこにいますか」という言葉に答えた総士は、フェストゥムと同化していました。一騎はその総士を傷つけたのでした。それにより総士の手から出ていた謎の結晶体は崩壊します。
総士がファフナーに乗れない理由は、一騎が片眼を失わさせたためでした。
一騎は、ずっといなくなりたかった、と告白します。
一騎にコアが語りかけます。「総士はね、一騎に感謝しているんだよ」と。
記憶の中の総士は、一騎に1つになろうと誘いかけます。
しかし、コアは1つになるのは選択の1つに過ぎないと言います。かつて1つであった状態に戻るほかに、前に進む道もあると言います。
一騎は、総士と話をしたいと言います。それは前に進む選択だとコアは言います。
一騎を含む同化した巨大な物体は、自らを食い、そして内部からマークザインが出てきました。一騎は無事でした。
竜宮島にフェストゥムが襲来します。人類軍は、彼らのエリートパイロットを島のファフナーに乗せようとします。
一騎は、助けに来た真矢に、竜宮島の外を見たかった理由を告白します。それは、総士が見たものと同じものを見たかったから。総士を理解するために。
溝口の口から、一騎の母の真実が伝えられます。母はフェストゥムから父を庇ったのだと。
一騎は、竜宮島に帰ることになりますが、それは帰る場所ではなく、行くべき場所だと言います。
感想 §
これは驚き!
これは凄い!
ファフナーでこれだけのものが見られるとは!
これは普通の感想を書いては太刀打ちできない内容ですね。
とりあえず、占領軍が安易に虐殺したりしない理性的な描写が素敵であるとか、そういう感想では全く足りません。
まず、コアを中心に語られる多くの言葉。この豊潤な言葉の数々を納めるために、通常のエンディングを流すことができず、本編がエンディングに重なってしまう変則スタイルもやむを得ないでしょう。これだけの素晴らしい語りを削ることなどできるはずがありません。
そこで語られる内容の要点は、希望に満ちたものです。
彼らには自ら意識的に選び取るべき未来の選択肢が存在すると言っているわけですね。
1つは、かつて原初に存在した全てが1つである世界に戻るという選択。そこには個人もなく他者もありません。会話もなく名前も無いのでしょう。
もう1つは、戻るのではなく進むという選択。その先に何があるのかは、明確には示されません。というよりも、それは未来の可能性であるため、具体的に示すことができないのは当然なのでしょう。
これまでは、フェストゥムに同化して別の存在になることが本作で示される未来だろうか、とも思いましたが、今回の内容を見ると単純にそうとも言い切れないですね。個人というものを学んだフェストゥムは、既に単一の存在ではなく、人の言葉で会話し対立する存在になります。単に同化することで全てが解決される結末は、もはや不可能でしょう。では、フェストゥムへの同化が(正しい正しくないと関係なく)至るべき結末の1つではないとしたら、いったい彼らはどこに行かねばならないのか。
それは、ファフナーという作品がこれから見せてくれるであろうと言うことで横に置くとしましょう。
ここでポイントになることは、1つである状態と、個が分離してコミュニケーションに苦しむ状況という対立状況が提示されていることです。
個の区別が無く全てが1つに見えるものといえば、たとえばインターネット上の2ちゃんねる的な匿名掲示板の世界があります。誰の書き込みも「名無しさん」のような名前で書き込まれ、例外を除き掲示板全体が個人という識別を欠いた1つのものであるかのように見えます。これは、現実に存在するフェストゥム的な世界と言えるでしょう。それと真っ向から逆行するものが、インターネットに伝統的に存在するnewsの世界でしょう。実名参加が原則であって、そこにはコミュニケーションする痛みが存在します。一騎が総士に対して抱く痛みと同じような痛みがそこに存在します。この痛みは、実名コミュニケーションのシステムにはあっても、2ちゃんねる的な匿名掲示板システムには存在しないものです。たとえ痛みがあったとしても、名無しである以上、それは名指しで特定個人に向けられるものとは違います。
問題は、この2つのシステムのどちらが望ましい選択であるかです。一見して、痛みが少ない匿名掲示板システムの方が良いように見えます。しかし、人が人として生きていく場合には、コミュニケーション、つまり今回のファフナーの台詞で言えば「会話」が不可欠です。不可欠のものを切り落としたシステムが上手く機能するかというと、これは疑問だと言えます。つまり、フェストゥムが「会話」を始めてしまったように、永遠に名前の無い匿名世界に、(肯定的にも否定的にも)止まってはいられないのではないかと。とすれば、必然的に、我々は名前のある世界に進まなければなりません。(それは一騎の選択と重なって見えます)
むしろ、コアが「傷つけ合うことさえ可能性に満ちている」と言っているように、痛みを得ることは否定的なことではなく、そこに可能性を見出すことすらできます。人は希望さえあれば生きていけると言うのなら、可能性に満ちた痛みのある世界こそが人の生きるべき道でしょう。
そして、コアが一騎に示したように、今の我々にも、2ちゃんねる的な匿名掲示板システムの中に名前もなく痛みもない世界に回帰していく選択と、そうではなく前に進む選択が存在しているわけですね。もちろん、匿名世界を選んで、まだ個人に名前が付けられていない状態に回帰するという選択は、一時的な幻想でしかありません。しかし、人には幻想に浸り続ける選択の自由もあります。
とまあ、そんなことを考えさせるだけの豊潤な中身のある内容で、非常に良かったと思います。
今回の名台詞(複数形) §
占領軍指揮官「ふふふ。悪くない座り心地だ」
強引に奪った施設の指揮官の椅子に座ってその台詞が言えるとは、ある意味大物でしょう。
一騎の母「私とおまえは1つのはずなのに、なぜ会話をする」
それは明らかにおかしいことであるのに、彼らは会話をしてしまったのですね。
コア「今の私たちにとっては傷つけ合うことさえ可能性に満ちている」
女の子「あの、それって何かのおとぎ話?」
コア「うん、この宇宙と私たちのおとぎ話。神様が私たちにくれた、嬉しくて悲しい、私たちだけの物語」
コアの素晴らしい台詞はあまりに多いですが、それとは別に特筆すべきはこのやりとり。コアは、コアとしての観点から言いたいことを喋っています。しかし、横にいる女の子は、それが理解できません。彼女がコアだと知らないのだから当然ですが。そこで、その意味不明の言葉をおとぎ話と解釈したことに、コアは肯定の言葉を返します。驚く無かれ、コアは女の子とのコミュニケーション「会話」を始めているのです。言いたいことを言うだけのディスコミュニケーション的な態度は取りません。相手の言葉を受け取り、それを受け入れ、相手が把握可能な言葉を返しています。実は、この程度のことができない人間は、この世界にいくらでもいます。実例はインターネット上にいくらでも見ることができます。
更に素晴らしきコア語録。これですら、かなりの抜粋です。
コア「同化現象は選択の1つだけれど、それ以外の道もあるの。私たちの身体には、帰り道と一緒に、これから進む道も示されている。あなたはどちらを選ぶ、一騎」
コア「あなたはそこにいる? それともいなくなりたい?」
コア「会話は自分が自分である。人が人であることの証拠だよ、一騎」
コア「コアに進むべき道を示してくれてありがとう」