(画像公開ポリシー)
単にガリスを愛した女性であるというだけでなく、ルルの母であろうとしたローサ。その思いを初めて知り、受け止めるルル。ディックの死をルルが悲しむだけでなく、そんなルルを見て悲しい思いを抱く別の誰かもいるのが「仲間」。
トーノZERO, THE BELKANアニメ感想家(笑)のアニメ感想を参ります。
今日のガイキングの感想。
サブタイトル §
第38話「みんな、燃えろ」
あらすじ §
ディックの死という衝撃からルルは立ち直ります。
ジャンやシオンが助けに来て、敵の攻撃の中、ダイヤと父は大空魔竜に戻ることができます。
生身で再会したダイヤと父。
ダイヤは炎を補給したガイキングで出撃します。
一方、ノーザは単身プロイストのところに乗り込み、1対1で戦います。戦いは強者ではなく、最後まで諦めない者が勝つ……と言うノーザは、意外な方法を使ってプロイストの身体に剣を突き立てることに成功します。
しかし、プロイストは父が死んだ今、キングダリウス17世(18世)は自分によって動かせると気づき、自分の身体をそれに取り込ませます。
ダイヤはガイキング・ザ・グレートに合体し、キングダリウスと戦います。
ルルは、逆転の秘策として、仲間達をプロイストの戦艦に乗り込ませ、ダリウスコアを手に入れ、そこにいるダリウス人達を助けていました。それにより、ファイナルデスクロスは停止します。
実は、そのための時間稼ぎと囮としてダイヤはプロイストと戦っていたのでした。
そして、キングダリウスは倒されます。
しかし、キングダリウスの目はまだ死んでいませんでした。
感想 §
キングダリウスとガイキング・ザ・グレートの最終決戦。これは燃えますね。
まず、戦いの表現の工夫がいい。
リーの機体が分離できないことからガイキング・ザ・グレート合体不能というピンチの演出。自分の身体を潰させることで機体を分離しようという捨て身の作戦で、ディックに続き犠牲者が……と思いきや、リーの行動を読んでいたヴェスターヌが助けに入って無事に脱出できるという洒落た展開。浮気ができないほど自分を理解する女性がいることの幸福。
そして、圧倒的にサイズの違うキングダリウスとガイキング・ザ・グレートの戦いという、ビジュアルのインパクト。
実はロボットアニメには2種類あります。スーパーロボットとリアルロボットという分類ではありませんよ。そうではなく、人間を描く方便としてのロボットと、人間ではない異質なものを描くためのロボットです。分かりやすい(若者には分かりにくい)例を出すなら、これはコンバトラーVとボルテスVの相違そのものです。自分自身の体をドリルとして敵の身体を貫くコンバトラーVは、明らかに人間にはできない行為を行う「機械」としてのヒーローです。しかし、ボルテスVが剣で敵を斬る「Vの字斬り」は、明らかに人間が行う剣術であり、設定上「機械」であっても、演出的な意味でボルテスVは人間そのものです。
さて、ここで問題になるのは、人間が行いうる行動をあえて機械に置き換えて描く必然性です。私は、そのような必然性は「無い」と思います。そのような行動の魅力を描きたいのであれば、人間を主役に据えて描けば良いからです。そういう意味で、私は、「ボルテスV」よりも「六三四の剣」の方が好きです。逆に言えば、あえてロボットを描くのであれば、人間を主役にしては描き得ない別の何かを描くために行うべきだと思うわけです。
ここで話を戻しましょう。いや、まだ戻らないかな?
ほとんどの場合、ロボットアニメは敵と味方がほぼ同じ身長として描かれます。特に、「人間を描く方便としてのロボット」としてのロボットアニメは、必然的に同程度の身長に描かねばなりません。人間の行動を描くためには、それが必要とされます。
逆に言えば、圧倒的にサイズが違うロボットが戦う映像は、「人間を描く方便としてのロボット」の世界では通常あり得ず、仮にあったとしてもかなりイレギュラーな存在と見ることができます。
つまり、圧倒的なサイズの差とは、「人間ではない異質なものを描くためのロボット」であることの証拠であり、それはロボットを描く必然性がきちんと作品の中に織り込まれていることの証でもあるわけです。
圧倒的にサイズの違うキングダリウスとガイキング・ザ・グレートがぶつかりあう描写とは、そういったロボット論の必然性を力強く肯定するかのような、非常にインパクトのあるシーンだったと言えます。
映像で描かれた上方を超える、別の何か、魂のようなものが伝わってくるビジュアルです。
特に、このスケール感は、劇場の大スクリーンで見たいビジュアルですね!
もっと言えば §
ガイキング・ザ・グレートの最後の攻撃は、最後に手足の自由を奪われますが、そこからパート3(って言わないのかな?)が分離し、ガイキング本来のパート1、パート2と合体して、最後の一撃を発射します。このシーンは本当に最高ですね。
もちろん、それが「人間ではない異質なものを描くためのロボット」として最高によく工夫された描写であることも間違いありません。
しかし、それだけではありません。
いわゆる1号ロボ、2号ロボという呼び方をするなら、ガイキングが1号ロボで、グレートが2号ロボということになります。
最後の決戦に2号ロボが挑戦するのはドラマの進行上、当然の要請となります。
しかし、1号ロボは作品の顔であり、愛着の対象となる存在です。
だからこそ、最後の一撃を1号ロボで放つという展開は素晴らしく燃えるわけです。
こういう展開は、あまり例が無く、たとえば重戦機エルガイムの最終回でエルガイムmk2から初代のエルガイムに主人公が乗り換えるような展開が思い出される程度です。しかし、これは非常に印象的な展開であり、ガイキングが同様の展開を緻密に描き込んで見せたことも、同様に非常に印象的だと思えました。
更に感想 §
自分の心の平静が最優先であり、そのためなら他人をいくらでも殺すプロイスト。
父を殺したことも自覚しています。
僅かなストレスにも耐えられず、過激な行動に出てしまう……というのは、実は細田守監督に「時をかける少女」にも通じるところがあるかもしれません。この映画の主人公は、僅かなストレスにも耐えられず、時間を逆行するタイムリープの能力を手に入れると、即座に時間を巻き戻して無かったことにするようになります。
そういうことから考えれば、インターネット上でカルト的な人気で盛り上がる「時かけ」に匹敵する内容をガイキングは描いているが、あまりにそのような価値は理解されていない……と評価することができるかもしれません。
もっと感想 §
「戦いは強者ではなく、最後まで諦めない者が勝つ」
つまりは心の問題です。
心が負けてしまわなければ、勝てるのです。
日本のアニメが持つ、本来的な価値とは、「心の問題」を描きうる力を持っていることだった……と過去形で思うことがあります。
ガイキングは、その良き伝統を受け継いでいるのかもしれません。
今回の一言 §
ガイキング占いにルル復活。
ディックの死という衝撃を乗り越えたようで、良かったですね。
しかし「新番組ルルと愉快な仲間達」などと、悪のりが行きすぎ?
いや、本当にそんなアニメが始まったら絶対見ますよ。