1回読み通して、そのあと何回か断片的に拾い読みしていますが、その程度で言い尽くせる作品ではないと思います。
しかし、1つだけ書いておく価値があることを思いつきました。
安易な子供向け娯楽アニメに整合性のある設定を後付けする意味 §
ファンが行う活動の一種として、安易な子供向け娯楽アニメに整合性のある設定を後付けするという作業があります。
たとえば、宇宙からの侵略者と戦う正義のヒーローロボット……というようなアニメに、整合性のある設定を後から作っていくわけです。
これは面白い作業であるし、できあがった設定は他のファンが見ても非常に面白いものです。
このような作業において特異的であるのは、フィルム上に表現されたことは全て「仮想上の事実」と見なし、「描き間違い」とは見なさないことです。
つまり、作品が本来設定を完全に一貫して描ききれなかったという厳然たる事実があるとしても、それは「間違い」とは見なさないということです。
その結果として、「矛盾した状況」に解釈を与える必要が生じます。
このような試みは、多くの場合成功します。
なぜかといえば、現実に人間、組織、社会とは矛盾と不完全さに満ちたものであって、そのような存在が行動を起こせばいくらでも「矛盾」をまき散らしうるからです。
そして、首尾一貫していない矛盾のある状況から浮かび上がってくるのは、人間の苦悩する心です。
つまり、安易な子供向け娯楽アニメに本来含まれていなかった深い心のドラマがそこに浮かび上がるのです。
これこそが、ファンが愚直なまでに映像に忠実に後付の設定やドラマを考える理由の1つであり、そのようにして生み出された設定やドラマの魅力がある理由の1つでしょう。
そのような観点から見れば、なぜスタッフ側がそのような設定を先に作る行為が魅力的ではないのか、理由は明らかです。なぜなら、そのようにして作られた設定は全てにおいて整合させることが可能であり、整合した設定からは「苦悩する心」は浮かび上がってこないからです。
デイアフタートゥモローの特異性 §
そのように考えたとき、実はデイアフタートゥモローという作品が行ったことは、上記のような後付の設定の作成そのものだと見ることができます。もちろん、Zガンダムは「安易な子供向け娯楽アニメ」ではありませんが、ガンダムシリーズが確実に描ききれなかった人間達の苦悩する心を浮き彫りにして描ききったという意味で、上記のパターンを完全に踏襲していると言えます。ただ1つ、それがファンではなくプロによって行われたという相違を除いて。
それゆえに、この作品が描くキャラクター像は、オリジナルの作品よりも深いと言えます。カイとクワトロの会話で見せるクワトロの弱さの露呈や、カイとアムロの会話での飾らない自然なアムロの態度など、この作品以外のどこで見られるのだ……という度を超えた描写の数々は、鮮烈という他ありません。
もはや新約Zの補完ストーリーではない §
しかも、そんなことまで描く必要はないだろうに「逆襲のシャア」でのシャアとアムロの行動への「心の軌跡」まで描き込んでいます。「ああそうか。だからシャアはアクシズを落とし、アムロはロンドベルでそれを阻止しようと戦ったのか」という理由が、心の弱さや優しさの問題として強く実感できました。
それゆえに、この作品は単なるカイの外伝でも、新約Zの補完ストーリーでもなく、ファーストガンダムから逆襲のシャアに至る作品全体の根底の根幹を描いた奇跡的作品と見ても良いでしょう。
本当の補完とは §
実は、この第2巻で非常に印象に残っているのが、レツが一人の人間として描かれていたところです。
カツとは別の人格を持った一人の人間としての存在感が、痛いほどに描かれています。
本編で大活躍したカツや、「実は成長したキッカが可愛いんだよね」といった風に話題になることもないレツに、きちんとした役割と人格を与えることができた……というのは、本当の意味での作品の補完というべき成果でしょう。
しかし、まだ完全には受け止め切れていない §
私も、まだこの作品を完全には受け止め切れていません。
たまに眺めて、この作品はいったい何か……ということを考えてみることになるでしょう。