これだけはしっかり書いておかねば、と思ったので書きます。
『文化財シリーズ26 甲州道中「高井戸宿」 杉並区教育委員会』で非常に興味深かったのは助郷制度です。助郷制度によって、高井戸宿が負担しきれなかった人馬を出した村の範囲が驚くほど広かったのです。
南組 §
- 世田谷村
- 弦巻村
- 用賀村
- 下野毛村
- 上野毛村
- 瀬田村
- 蒲田村
- 岡本村
- 大蔵村
- 岩戸村
- 猪方村
- 喜多見村
北組 §
- 下仙川村
- 中仙川村
- 上仙川村
- 北野村
- 野川村
- 下連雀村
- 上連雀村
- 境村
- 西久保村
- 松庵村
- 大町村
- 上給村
- 金子村
- 矢ヶ崎村
- 吉祥寺村
- 深大寺村
- 関前村
- 下染谷村
- 入間村
- 小足立村
- 芝崎村
- 佐須村
- 関村
感想・鉄道忌避伝説との関係 §
現在の地名と対応する村名も多いので、おおむね分かると思います。
範囲は世田谷区や練馬区にも達しています。東にはあまり延びていませんが、西は深大寺や吉祥寺も飲み込んでいます。金子村は、おそらく現在のつつじヶ丘でしょう。
現在の上高井戸、下高井戸は杉並区内でもさして重要ではない場所として扱われています。しかし、江戸時代には周辺市区にあたる村からも人馬を出させるだけの巨大な存在感を持った場所だったわけです。たとえ、大名も滅多に通らない高井戸宿であっても、それだけの強大な権力が備わっていたわけです。(ただし、それは高井戸宿の権力ではなく、宿場制度を運用する幕府の権力)
この事実は、鉄道忌避伝説が生まれねばならなかった理由を考える上で、大きなヒントになるような気がします。
鉄道忌避伝説というのは、要するに以下のような話です。
「現JR中央線を作るとき、本当は甲州街道沿いに作りたかったのだが、沿線住民が反対して今の経路になった」
しかし、甲州街道沿いの具体的な計画資料は全く残っておらず、反対運動があったという具体的な史料も無いといいます。
つまり、創作された歴史です。
なぜこのような歴史を創作する必要があったのか……と考えたときに、宿場町が持つ強大な存在感、求心力が急速に失われたという事実に、何か納得できる説明が必要だったから……と解釈することができます。
それが事実か否かは分かりません。
しかし、地域社会の常識が現在とは大きく違うという状況は、頭に入れておかねば判断を誤りかねないな、と思いました。