「『本を読む子供はよい子か悪い子か』からネギま!という作品の特質を紐解いてみる」は「猫とネギま!と声優さん」さんにも取り上げていただきましたが、書いた本人にもインパクトがありました。これを書くことによって、実は今まで見えていなかった問題がいくつか見えてきたのです。やはり、頭で考えるだけでは不十分で、きちんと文字として書くことは大切ですね。
というわけで、その問題の1つをここで書きます。
パンチラ大国ネギま! §
(なお、ここでは、スパッツ類など見せることを前提とした衣服も、スカート類の内側にあるものが見える状態は全てパンチラと見なしています)
言うまでもなく、ネギま!という作品はパンチラの宝庫です。
本人が気付かない状態で見えてしまう状態から、見えてしまうことを承知の上で真剣に格闘を行うことで見える状態まで、様々です。
しかし、それらの描写には風情のある色気はあっても、男の欲情にサービスする強引さはありません。常にあるべき必然的な流れの中で、美しいものとして描かれます。
ネギまは脱げるんです §
パンチラだけではありません。
ネギま!脱げます。
ネギのくしゃみで脱げ、入浴中に拉致されて裸のまま拘束され、話題の脱げビームで脱げ、明日菜に魔法を無効化されて脱げます。
しかも、脱げるのは女の子だけではありません。ネギ自身、文化祭の準備段階ではクラスメート達に脱がされます。
実は心も脱げるんです §
しかし、ネギま!で脱げるのは実は服だけではありません。
人の心を囲う見えない障壁が、「チラリと外れて中が見える」「障壁そのものが破壊され丸裸になる」といった描写が繰り返し出現します。
たとえば、雪山での試練に耐えている明日菜を見るエヴァの表情にチラリと本音が見えたり、ネギを好きになってしまったことをのどかに知られた夕映は「心の障壁」の全崩壊状態に陥ってうろたえます。
しかし心の障壁は見えない §
さてここが決定的な問題です。
心の障壁とは目に見えません。
小説のような文字主体のメディアであれば問題ありません。言葉で「心の障壁が壊れた」と書けば良いのです。(もちろん、別の表現でも構わない)
ところが、ビジュアル主体のコミックではこれが上手く描けません。表情や行動など、様々な方法で「間接的に」表現するしかないのです。
とはいえ、表情や行動は読み取りにくく、しかもインパクトがありません。
そこで、ビジュアル的に解りやすく、インパクトのある描写によって隠喩として表現する方法が思い浮かびます。
そのように考えると「パンチラ」「脱げる」は、心の障壁がチラリと外れる、全崩壊する、といった表現の隠喩であると考えられます。
つまり、それは一種の間接的心理描写の一部であり、作品構成上必然的に要求されるものであった……というわけです。
(追記) もちろん、これは個々の「パンチラ」「脱げ」描写が、それぞれ何らかの個別の心理描写だという意味ではありません。そうではなく、見える必然性があるときに見せることを恐れないという特徴を「体」について示すことで、「心」についても同じであることをアピールしているわけです。
パンチラ脱げ頻度とキャラクター性 §
ここは検証不十分で、あくまでアイデアのヒントだけ書きます。
パンチラ脱げ頻度の高いキャラクターは、実は本音を晒しやすいキャラクターと見なせるかもしれません。たとえば、明日菜やのどかはパンチラ頻度が高いような気がしますが、割と本音を漏らしやすいキャラクターです。「妻妾同衾」を思い付いたとき、すぐに周囲に知られてしまうぐらいだし。一方で、あまりパンチラを見た記憶のない夕映は、本音を強固に秘匿するキャラクターです。脱げキャラの高音・D・グッドマンは「他人の言うことを聞かない」という特徴により、本音と行動が直結しており、そもそも「心の障壁」の存在感が希薄です。
更にもう1つ補足するなら、明日菜がエヴァの修行時に着用しているゴスロリ服はスカートの前の部分が開いていて、実質的に常時パンチラです。これは師匠によって常に本音を晒すように強要された、とも受け取れます。(つまり、精神的な逃げ場を奪って、強い心を鍛える)
解ける謎 §
このような解釈は、「パンチラ」と「脱げ」に溢れたこの作品が、エロさを求める読者層に今ひとつ支持されていない理由を明確に示します。つまり、「パンチラ」と「脱げ」への注目は、「隠された本音」という重い心理描写につながっていて、実は「肉体」ではなく「心」の問題に向き合うことになってしまうのです。
逆に、パンチラが「性欲のはけ口=汚いもの」ではなく、常に「美しいもの」として描かれることは、この作品が「隠された本音」を肯定し、優しく受け止めることを示します。
そして何より、隠された本音に踏み込むことを恐れない勇気あるいは愛情の存在を示します。
補足・隠された本音に踏み込むことを恐れない §
「隠された本音に踏み込むことを恐れない」という問題は、山田ミネコの最終戦争シリーズ「冬の円盤」を題材に説明します。(個人的に真っ先に思い浮かぶ作品なので)
曖昧な記憶でいい加減に書きます。
タイムパトロールの尾鷹星野は、時間犯罪者を追って1970年の鎌倉に来た。そこで、父親が再婚した後妻に不快な態度を示す大槻真砂流という少年と出会う。星野は、不機嫌そうにしている真砂流に対して、普通だったら遠慮して言わないだろう台詞をぬけぬけと言ってみせる。つまり、母親の後釜に大きな顔をして座っている後妻が気にくわないのだろうと。本音の図星を指されて真砂流は焦るが、それだけではなく実は彼女には怪しいところがあるという秘密情報を星野に告げる。そのヒントを通して、星野は後妻こそが時間犯罪者であることを突き止め、彼女を追い詰める。
このストーリーの構造でポイントになるのは以下の点です。
- 相手の本音に踏み込むことは、普通なら行わないこと
- 好意的に相手の本音に踏み込むことは、拒絶されるとは限らない
- 拒絶されないどころか、深い信頼関係が生じることもある
- それが解決不能の問題を解決する糸口になることもある
では、ネギま!のどのあたりに、このような構造が見られるでしょうか?
いくつも見られます。
たとえば、121時間目、武道会のあと父親のことは吹っ切れたと言うネギに対して、「吹っ切れる訳ないだろ」と殴る千雨などは典型的なところでしょう。常識的に言えば、千雨の態度は相手の心の問題に踏み込みすぎです。しかし、この「過剰な踏み込み」がネギと千雨の強固な信頼関係を作りだし、第1次ネギパーティーを情報面で支援する最強「電賊」を誕生させる切っ掛けになったことは間違いないでしょう。
(逆に、これはアンチ千雨ファンが存在する理由も明確に示します。社会常識的にあり得ない水準で相手の本音に踏み込んでくるキャラクターは、踏み込まれたくない読者から見れば最大級に嫌な奴となります)
余談・31人いる §
このような考えは、実は31人もの女の子を描き分けることができる理由を示します。
つまり、「パンチラで31人を描き分けるのは難しいが、31種類の隠された本音は描きうる」のです。
人の本音は百人百様であり、同時にどのような内容であっても、それは本人にとって切実です。
だから、それは人の数だけ描きうるものだと思います。
(TVドラマ版は、超が最終的に残ったクラスメート達を消す際、1人1人それぞれに違う隠された本音をテコにして、1人1人別々に罠にかけたという点では秀逸なドラマ作りをしたと思います。異論を差し挟む余地もいろいろありますが、それはそれとして)
感想 §
美しい自然なパンチラ、というネギま!の特徴を、作品の本質と連動させるアイデアを得たのは個人的に非常に嬉しいです。まあ、それが正しいかどうかは別として。
余談 §
これを書き上げて、さて公開しようかと思った瞬間、MP3のランダム再生プレイヤーが山田ミネコの最終戦争伝説イメージアルバムの曲を再生し始めたのは偶然にしては出来すぎ。