主題的に、ネギま!の話題として書くのが妥当だと思ったので、こちらに書きます。
mixiの敬一さんの日記で、「家族八景 上・下 清原なつの」の筒井康隆の解説に「多くの読書は有害である」という言葉があることが紹介されています。
これは、ネギま!という作品がミスリードされるケースが多い理由の1つを説明しているかもしれません。そして、このテーマの延長線上にネギま!という作品が持つ特質が浮かび上がる……かもしれません。
回り道のようですが、映画「耳をすませば」から話を始めます。
月島雫はよい子か悪い子か §
映画「耳をすませば」の主人公月島雫は、登場早々に学校の図書室を開けさせ、本を借ります。図書館にも通います。では、月島雫は大人の良いことを聞くよい子でしょうか? それとも悪い子でしょうか?
映画を見れば分かるとおり、月島雫は父、母、姉、先生を心配させる悪い子です。大人の味方は、地球屋のお爺さんただ1人です。しかし、このお爺さんは赤の他人であって、無責任に主人公を煽っているだけの存在です。彼は月島雫の将来に対して何ら責任を取らない立場です。つまり、本当に彼女の未来について何かを考えている大人達全員を、月島雫は全て裏切っています。
(であるからこそ、この映画は面白い。月島雫は大人達への裏切りの罪を自らの意志で背負いながら、裏切りを貫徹できずに挫折してしまう。しかし、その挫折こそ、大なり小なり、人間であれば誰でも体験する挫折なのだ。その挫折を否定せず、隠さず、未来へ続く1ステップとして祝福するからこそ、この映画は暖かい)
しかし、この月島雫がよい子に見えてしまう人達が多くいるようです。大人から期待された良いことを実行していると見え、それが実行できない観客である自分にコンプレックスを感じる……といったたぐいの感想を見ることがあります。
このミスリードの原因を突き詰めれば、「多くの読書は有害である」という認識の欠如にあると考えられます。
大人は本当に子供に本を読ませたいのか? §
ここで問題となるのは、「多くの読書は有害である」という認識が正しいとしたら、なぜ大人達は子供に「読書せよ」と圧力を掛けるのか、です。
この問い掛けに答えるためには、実は別の前提が必要です。
それは、「大人は子供が読書することを望んでいる」という主張とワンセットで、「大人は子供が読むべき文書の内容を改変している」という事実が存在することを認識することです。
実は、子供に読ませるべき「本の改変」は昔から日常的に行われています。
たとえば、桃太郎というおとぎ話は、元々川に流れてきた桃を食べたおじいさんとおばあさんが若返って子作りして桃太郎が生まれるという話だったそうです。しかし、明治時代の教科書に掲載する際に、若返りや子作りの記述を取り除き、その代わりに桃の中に赤ん坊がいたという内容に差し替えられたと言います。
この手の改変は、童話等の残酷な描写が差し替えられる等、今でも行われて話題になります。
(本ではないが、アニメの「小公女セーラ」(1985年)で驚いたのは、散々セーラに対していじめを行ったミンチン女学院がセーラによって許されてしまったこと。もちろん、原作小説では当然の結末として潰れてしまう)
つまり、「大人は子供が読書することを望んでいる」という認識は厳密には誤りであり、実際には「大人は子供が有害な読書を行うことは望んでいない」と見るべきでしょう。逆に言えば、「大人が子供に望むのは、有害な部分を除去した善良な読書だけである」と言うことができます。
この認識は、以下の2つの状況を上手く説明します。
- 大多数の子供は読書が退屈である
- 少数の子供は「まるで中毒患者のように」読者にはまりこむ
つまり、「有害な部分を除去した善良な本」とは本質的につまらないものであり、それに退屈するのは当然。一方で、大人から与えられる子供のための善良な本という枠組みを踏み越えてしまうと、そこに待っているのは「有害な読書」の数々であり、もちろんそれは反社会的で面白いのです。
その結果として、読書量が一定水準を超えない者達は読書という行為を敬遠するようになり、一定水準を超えた者達はより以上の読書を求める傾向が生じることを意味します。
図書館探検部はよい子か悪い子か §
さあ、ネギまの話にやっと入りましょう。
この作品は図書館と本が大きな存在感を持って示されます。特に、誰も全貌を把握していない巨大な地下書庫は、重要な冒険の舞台です。
そこを探検する図書館探検部は、紛れもなく最大級にエキサイティングな部活動の1つと言えます。
誰も全貌を把握していない巨大書庫に収納された本は、もちろん「大人による毒抜き」などされているはずがありません。つまり、図書館探検とは、悪徳、快楽、赤裸々に表出された人間の本音、蓄積された知恵の数々、怪しげなトンデモ情報等々の素晴らしいお宝を探索する行為です。
(読書という有害行為に浸ってきた私からすれば、図書館探検部は素晴らしすぎる! 私も入りたい!)
だからこそ、中学生でありながら図書館探検部の面々は「妻妾同衾」といった言葉を容易に思い浮かべたり、過去の様々な文学作品に見られる三角関係の末路を平然と語ることができます。それは、紛れもなくよい子のありようではありません。
つまり「多くの読書は有害である」という状況が作品内にストレートに反映されています。
逆に言えば、「多くの読書は有害である」という認識が欠落した状態で読めば、いともたやすくこの状況はミスリードできます。図書館探検部の面々は、有害行為を日常的に行う悪い子ではなく、大人が望む通りの行為を理想的に行うよい子=嫌な奴と見えてしまうわけです。
悪を背負うネギパーティー §
読書が有害であるなら、図書館探検部の面々は悪を背負った存在です。
では、彼女らだけが悪を背負っているのでしょうか?
そうではありません。
そもそもネギからして、紳士のような綺麗な顔つきでいても、彼の本質は「復讐者」です。そして、「あの夜の惨劇の恐怖」から逃れるためにあがき続けねばならない心も持っています。アーニャの手引きで図書室に忍び込んで勉強するというのも、「勉強熱心=よい子」とミスリードされがちだと思いますが、実際には紛れもなく「ルール違反の悪い子」です。
そして、師となるエヴァンジェリンは紛れもなく「悪」の属性を背負います。もちろん、彼女は善良な心を持っていますが、社会的に背負わされた属性は「悪」です。
茶々丸は、創造主あるいはマスターに対する忠誠と矛盾する、ネギへの好意を抱いてしまい、「良いロボ」から逸脱しています。
千雨はフォトレタッチで修正した自分を本当の自分と偽って男達の歓心を得ていた過去を持ちます。
刹那と木乃香は禁断の関係を匂わせ、ハルナは同人(ヤオイ?)の属性を背負い、楓は自分の本来の立場を明確にせずに秘匿し続ける不誠実さを背負います。
明日菜は、せっかく関係者が明日菜のために用意した平穏な環境を自分から突き破って、危険に身を投じてしまいます。
(古菲だけは本音がよく見えないので、考察しがたい)
一方で、これと言って悪を背負わないアキラや亜子はネギパーティーに加入していません。
このような状況を見ると、何かしらの「悪」を背負うことがネギパーティー加入の条件と言って良いぐらいの状況です。
そして更に言うなら、アキラや亜子は、行ってはいけないと止められていたにも関わらず魔法世界に付いてきてしまうという「罪」をなして「悪」を背負うことを通じて、実質的にネギ達の仲間に近い立場に立ったとも言えます。
春日美空を通じて見る・「悪」を背負うとは何か §
では、具体的に「悪」を背負うとはどういうことでしょうか?
春日美空を通じて考えると分かりやすいと思います。
春日美空はイタズラ好きであり、洒落にならない罪を背負っていることが示唆されています。
では、彼女は他人に迷惑を掛けるだけの存在でしょうか?
18巻164~165時間目で神父に化けて懺悔を聞いた美空は、自分の行いをイタズラと自覚していたようです。しかし、実際にはかなり的確なアドバイスを与えています。
では、なぜ的確なアドバイスが言えたのでしょうか?
それは、告白者の心情をよりよく理解できたからでしょう。
では、なぜ美空はよりよく理解できたのでしょう?
それは、人の心の弱さや暗い部分をよく知っていたからでしょう。
では、なぜ美空は人の心の弱さや暗い部分をよく知っていたのでしょう?
それは、美空自身が「悪」という属性を背負うことを通じて、自分の中に見出したものだからでしょう。
つまり、「悪」を背負うとは他人の心をよりよく理解し、優しくも厳しくもなれることを意味するわけです。
善悪・敵味方の相対化 §
この段階に達すると、「悪」に対して「悪だ」という理由だけで倒すことはできなくなります。なぜなら自分も「悪」を背負っている以上、正義の名の下に悪を成敗することはできません。とすれば、戦うためにはどうしても何かプラスαの確信が必要とされます。これは、ネギと超の間に存在した関係性そのものでしょう。
ネギが超と戦う理由を悩んだことは作中によく描かれていますが、実は超もそれを悩んでいたらしいことが示されています。133時間目で、超が悪いことをしているなら止める、というネギの発言に対して超は「面白い それでいこうカ」と言います。ネギの発言はあくまで仮定のものですが、超はその仮定の発言を否定しないことによって、その場に存在していないはずの善と悪を現出させ、擬似的な戦う理由を創出します。「それでいこうカ」とは、そのような創出のシナリオが計画されたものではなく、その場の即興だったということでしょう。つまり、超はそのようなシナリオを緻密に準備できなかったことを意味します。
更に、超は学園祭の最終決戦において、自分が悪のラスボスであることを学園全体にアピールすることを通じて、ネギ=正義、超=悪という本来は存在しないはずの善悪の対立軸を明確にアピールします。それは、ネギに対して戦う必然性を与えると同時に、自分に対して戦う必然性を与えるものだったのかもしれません。
そしてここが最も重要なポイントですが、超はラスボス宣言の最後に肉まんの宣伝を追加することを通じて、自らがアピールした「悪」の虚構性を示します。それは、ネギが背負った正義も虚構であることを暴露します。
その結果として、ネギと超の戦いは善悪の戦いではなく、個人的な思いをぶつけ合う私闘となります。であるならば、この段階で陣営分けは意味が無くなります。敵味方という概念が無意味になるのです。
だからこそ、力尽きて落下するネギと超を、陣営敵味方を超えて仲間達が結束して助けることができるわけです。
別作品で見るなら §
たとえば、ガンダム00も同様の構造を持つといえます。
主人公のセツナは、かつて少年兵として無抵抗の民間人を殺しています。現場指揮官に相当する戦術予報士のスメラギは、過去に判断ミスによる惨事を引き起こしたことが示唆されています。過去の人の命を奪う行為に関与した「罪」が存在するにも関わらず、その上で人命を損なう武力介入という行動に意識的に荷担するというのは、明らかに「悪」の属性を持つと言えるでしょう。他のガンダムマイスター達、ロックオン、アレルヤ、ティエリアも何らかの「悪」の属性を背負っていると見て良いでしょう。
しかし、当初彼らは仲が悪く、「他人の心をよりよく理解する」という特徴を発揮しません。それは、ガンダムマイスターの素性の機密性ゆえに、理解するためのヒントが抑止されたためだと考えられます。実際、第2チーム、ガンダムスローネの出現に際して、命令違反という形でマイスター達の本音が漏れだした後、彼らは相互理解、信頼、連携、いたわりなどの強固かつ暖かい関係を驚くほど短期間で形成します。
更にこの構造は敵側にも適用できます。セルゲイ・スミルノフは、戦争という行為がある種の悪を背負う行為であると理解しているがゆえに、戦うことを綺麗事としてしか受け止めていない超兵一号ピーリス特務少尉の参戦に危惧をした、とも解釈できます。そして、ピーリス特務少尉は敗北や、暴走により民間人を危険に晒す事故を引き起こしたことで「悪」を背負うことで精神的に成長します。そのように成長した彼女を、セルゲイは部下として連れて行くことを否定しません。
更に、この作品には「陣営敵味方を超えて結束」という構造が典型的に見られます。超兵の秘密研究施設は、ソレスタルビーイングの攻撃によって破壊されると同時に発覚し、セルゲイの手によって組織上から告発されます。本来敵対する者が事前に相談することなく連携した行為といえます。落下するステーションの救出作業は直接的なソレスタルビーイングと人類革新連盟の共同作業だったと言えるし、更に相互に敵対する人類の巨大国家群が結束してソレスタルビーイングと戦う行為も、「陣営敵味方を超えて結束」という構造です。
このような戦いの物語を見るために必要な資質はおそらくネギま!と同じです。
「分からない人にはとことん分からない」という特徴も同じであるように見えます。
この構造を理解するために必要なこと §
それが何かをガンダム00は明示的に示しては居ません。(と思います、少なくともこの文章を書いている現時点では)
しかし、ネギま!は示しています。
18巻163時間目より。ネギの発言として
「キレイなままではいられない」
「いや そもそも最初から僕たちはキレイなどであるハズがない」」
つまり、人間が生きるということは大なり小なり悪の属性を背負うことであり、綺麗なままではいられない、ということです。だから、純粋な善、純粋な正義、純粋な無垢などは、人の属性としてはあり得ないわけです。
であるから、人が生きる道は以下の3つしかありません。
- 自分が背負った「悪」の属性を受け入れて、それでも前に進み続ける (ガンダム00でいえばプトレマイオスのガンダムマイスター等)
- 自分が背負った「悪」のプレッシャーに負けて「悪」に飲み込まれる (ガンダム00でいえばアリー・アル・サーシェス等)
- 自分が背負った「悪」の属性に気付かない (ガンダム00でいえばガンダムスローネのガンダムマイスター等)
学園祭編でネギが体験したのは、3番目から1番目への変化と言えます。上記の発言はそのような自己認識を示していると言えます。
さて、ここで問題となるのは、世の中の多数派は1~3のどれか、という点です。
おそらく、3が多数派だろうと思います。
しかし、人間は成長するに従って、いつかの時点で3のままでは居られなくなります。そして、1か2へと変化を余儀なくされます。しかし、その変化は容易なことではありません。
そのことは、ネギま!の作中で明確に示されます。
18巻163時間目より。エヴァの発言として
「おまえのような真っ直ぐで才能ある前途有望だが世界を知らぬ若者には」
「それを思い知らせるのが最も難しい」
それゆえに、「ネギま!」や「ガンダム00」や「耳をすませば」は、不可避の必然のドラマを描いているにも関わらず、「真っ直ぐで才能ある前途有望だが世界を知らぬ若者」であればあるほど、理解から遠ざけられてしまうという皮肉な逆説が現出してしまうわけです。
まとめと展望 §
以下のような単純な図式化は多くのニュアンスを取りこぼして不正確で誤った印象を与える可能性が高く、あまり良い書き方ではありませんが。それでも、まとめとして書いておきましょう。
単純に分かりやすく要約すると、「人はキレイなままではいられない」という「前提」に基づき、ならば「キレイではない自分に何ができるのか」を問うことがネギま!という作品が持つ骨格的な構造の1つだと言えます。
このような物語は、「前提」が欠如することで容易にミスリードされます。つまり、「僕はキレイだ」「人はキレイでいられるはずだ」という根拠のない願望的確信を持つ限り、作品世界の中に入っていくことはできません。このような願望的な確信は精神の成長に従って消滅していくものですが、常に消えるとも限りません。大人になっても持ち続ける人はいるし、死ぬまで持ち続ける人もいます。従って、ネギま!はそのような人達からのミスリードを常に受け続けるリスクを持ちます。これもまた不可避の状況と言えるでしょう。
しかし、以下のような状況は十分にあり得るでしょう。
「子供の頃に読んだネギま!を大人になって、中年になって、老年になって読み返したら、こんな奥深いことが書いてあって驚いた!」
オマケ §
最近のアニメでいうと「しゅごキャラ」にも、同じような視点を適用できます。
主人公の日奈森あむは、素直になれない自分、周囲に蔓延をする誤解を解かない自分という「悪」を背負った屈折した心を持ちます。であるからこそ、挫折した他人の心をより良く理解してそれを救うことができるわけです。日奈森あむが行うことは、けして悪を倒すことではなく、傷ついた心を救うことにあるわけです。
その点で、敵を倒すことを目的とした他の変身美少女アニメとは一線を画します。