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紀伊國屋書店

2008年09月30日
トーノZEROアニメ感想崖の上のポニョtotal 4681 count

「崖の上のポニョ」の世界観に踏み込む試みPart3・これを踏まえずに映画を分かった気になってはいけない? 生物多様性という重要課題!?

Written By: トーノZERO連絡先

 これは、宮崎駿ネットワーカーFCのWindsTalkメーリングリストに書いた内容の再編集版です。

 Part-2から続きます。

フジモトの求める生物種の多様性は(たぶん)正しい §

 古世界の住人・川崎悟司イラスト集に、関心のある古生物史アンケートというページがあるのに気付きました。

 これを見ると、1位がカンブリア紀。3位がデボン紀です。恐竜の時代は5位以下。その筋のマニアの注目先が、世間一般と違うことが良く分かる結果です。

 ちなみに、おいらも1990年代ぐらいから「カンブリア紀!」なので、そういう意味ではトレンドに乗ってます。

 更にどうでも良い余談。

 このサイトには、ネタの未来架空生物というのも掲載されていることに気付きました。(ファーストガンダムが分る人限定)

ポリュムニア

ズボック

 さて、話を戻すと。

 ここまでの話で、架空のデボン紀の魚、デボネンクスを、作中世界において「フジモトにより発見され、命名されたデボン紀の魚」と位置づけてみました。

 では、なぜそのような魚がこの映画には必要とされるのでしょうか?

 古代生物趣味を前提にすると、前回書いた理由の他にも理由が考えられます。

 通常、古代生物は化石を通して現代の人間から認識されますが、全ての生物が化石の残るわけではありません。化石に残っていても未発見ということもあります。発見された化石が生物の一部でしかないこともあります。

 そのような観点から行けば、発見された古代生物だけを使って過去を語ることは完全に馬鹿げた行いです。実際に存在したであろう生物種は、既知の生物種よりも遙かに膨大であるはずなのです。だから、たとえ空想上の生物であろうと、何らかの未発見生物存在を示唆する内容を含む方が、より健全とすら言えます。

 このような観点から言えば、「架空生物」であるデボネンクスが描かれるのは必然だったと言えます。

 そして、そのような意図の傍証もあります。それは、フジモトの台詞にカンブリア爆発と絡めて、「生物種の爆発的多様化」を意図しているかのように解釈できる台詞があることです。

 フジモトの意図は、「化石でしか残っていない生き物の復活」ではありません。カンブリア爆発のような出来事でもたらされるのは、生物種の爆発的多様化です。

 おそらく、宮崎監督自身も、生物種の多様化は良いことであると考えているのだと思います。

 更に言えば、たぶんこのような考え方は間違っていません。以下のような話題につながっていると考えられるからです。

生物多様性

 よくある間違いは、外来種が在来種を駆逐する際に、外来種の方が役に立つならそれで良いじゃないか、と肯定する意見です。これは狭い範囲の効能だけに着目した粗雑な議論です。生物の多様性が維持されるということは、利用可能な遺伝子資源の多様性を確保することもあるし、環境の変化などに適応して生き延びる生物が含まれる可能性を高める行為にもなります。少数の生物種だけで構成される生態系は、環境の変化であっさりと崩壊しかねません。

 在来種を守れ、というのは単に伝統が失われるであるとか、心情的に悲しいであるとか、そういった感情的な理由ではないわけです。

 だから上記のページでも、以下のような経済面に対する記述が見られるわけです。

資源としての利用

生態学者と環境保護主義者は、生物多様性の保全に関して、まず始めに経済的な側面から議論を行った。

経済的な価値を持つ製品(食品・薬品・化粧品など)を生み出す資源の供給源として生物多様性は重要である。この生物資源管理という概念は、生物多様性の衰退に伴う資源喪失の危惧と関連してくる。生物多様性を資源とみなす考え方は、天然資源の分配・割当のルールに関する新しい衝突を引き起こす元にもなっている。

 しかし、生物多様性の維持という問題は、経済的な問題にとどまるものではなく、地球の未来に対する人類の責任という側面もあるでしょう。

 フジモトの(そして宮崎監督)のバックグラウンドはこのあたりにあるような気がします。

 ここで重要なことは、「残された貴重な生態系を守れ」「絶滅危惧種を守れ」といった主張は、単に珍しいものを守れという意味ではない、という点です。それは、「生物多様性」という観点から要請された「手段」として位置づけられます。

 だから、過去の特定の時期の状態を「あるべき正しい状態」と位置づけて、それと違うものを全て排除するような「環境保護」は、このような観点からは「間違い」となります。多様性を維持しやすくする、あるいは多様性が拡大するような、変化は積極的に受容する価値があります。そのような方向性を突き詰めていけば、現生生物を滅ぼそうとも、より多様な生物種が出現しうるカンブリア爆発の再現を行う方が良い、という極論にも到達し得ます。

生物多様性と「昔は良かった」とフジモト §

 話題が「生物多様性」の話に進みましたが、ここで少し脱線します。本筋と深くは関係しませんが、書いておく必要があると思ったので。

 自然保護という問題でよく見るのは、「正しい状態の自然」なるものがあり、それを「安定継続できる落ち着いた状態」であり、その状態を「永遠に継続させる」ことが「自然を守ること」だという考え方です。

 たとえば、毎年同じ時期に同じ花が咲き、同じ虫が出てきて、同じ動物が闊歩するのが正しいという考え方です。

 しかし、これは全くの誤りです。

 なぜかといえば、人間が何もしなくても自然環境はどんどん変わっていくからです。温暖な時期と氷河期が繰り返されるのも事実だし、1年単位での変動もけして小さいものではありません。大規模火山噴火のような出来事によって、環境が広範囲にガラッと変わることもあります。

 そのような環境の変動によって繁栄を奪われる生き物もあれば、逆に繁栄する生き物もあります。人間が一切存在しない世界でもそのような変動があり得ます。

 とすれば、人間が「正しい状態の自然」なるものを規定し、ある生物は多数派で、ある生物は少数派である状況を固定的に持続させることにどのような意味があるのか。実は、本来なら繁栄したかもしれない生き物の繁栄を奪う行為だったとは言えないのか?

 実は、このような主張を行っている者達は、単に「子供の頃見た光景」「子供の頃に聞かされた良かった昔の語り」を求めているだけで、本当は自然のことなど考えていないのではないか?

 この手の話は、他の分野でも典型的に見られます。

 たとえば歴史の世界。

 「世の中が悪くなったので、良かった昔に戻そう」という語りは珍しくありませんが、これもほとんどは同様です。本当に昔のことを考えている発言ではありません。昔と言っても過去の状況は様々に変化しています。その変化の中には、良いこともあれば悪いこともあります。そして、良かった昔として名指しされる時代に遡れば、やはりその時代にも「昔は良かった」という主張が見いだせるのです。

 そして、世の中が変化し続けながら動いている以上、時代や地方が変わるだけで「良かった昔」は決定的な非互換性を発生させます。

 たとえば玉川上水の清流復活という問題があります。

 江戸時代の江戸の上水として開削された玉川上水は、現在では小平監視所までが使用され、そこから下流は上水としては使用されていません。かなりの区間は既に埋め立てられ、公園等に使用されています。

 しかし、流れの復活を求める声は大きく、実際に行われています。

玉川上水

これより下流、浅間橋(杉並区久我山)までは東京都の清流復活事業により高度

二次処理下水が通水されている

 これにより、のどかな水が流れる緑豊かな環境が一部では戻ってきているようです。

 しかし、これは到底、「良かった昔の復活」などではあり得ません。いろいろ疑問点があります。

  • 玉川上水は水量豊富な激流であり、落ちたら助からないとまで言われた。のどかな流れとは印象がまるで違う
  • 上水は衛生と直結する貴重な資源なので、利用や立ち入りは厳しく制限されていた。気軽に自然と親しむような水ではない
  • 玉川上水を潰して道路を造る計画が修正を余儀なくされ、玉川上水を保存しつつ上水左右に沿って道路を造るために、道路建設費の高騰や、立ち退きを迫られる家が増える可能性もあり得る

 更に言えば、以下のような問題もあります。

  • そもそも玉川上水は人工的に開削された水路であり、それそのものが自然破壊、景観の破壊として機能した可能性がある

 このような観点に立てば、本来あるべき伝統的な景観を取り戻すには、玉川上水を埋めるのが最善という考え方すら出てくるでしょう。

 では、何が正解なのか。

 今の清流復活が最善なのか。

 それとも、もっと激しい流れに戻すのが正解なのか。

 あるいは、埋めてしまうのが正解なのか。

 たった1つの正しい答はあり得ないでしょう。

 このような話は他に例がいくらでもあります。

 いずれも、たった1つの正しい答はあり得ないものばかりです。

 しかし、実際には「世の中は悪くなったので、良かった昔に戻そう」と言ってしまう人が多いのです。

 この状況は、明らかに本当の「昔」が参照されていないことを示します。ここで提示されている昔とは、実際には創作されたフィクションでしかありません。都合の良い要素だけを組み合わせて、都合の悪いものは破棄された曖昧なイメージです。曖昧である以上、矛盾する要素も同居できます。

 このような状況から分るとおり、これは具体化できません。具体化すれば、「私の理想」と「あなたの理想」が違うことが明らかになってしまうからです。それどころか、破棄されたはずの都合の悪いものまで呼び込んで、上手く機能しない可能性も高いでしょう。

 つまり、これは「建設的な提言」でも何でもなく、実際には「折れそうになる自分の心を守るための叫び」でしかありません。

 自然保護も同様の傾向を内包します。結局のところ、思い通りに生きられない心の挫折や、世の中に対する罪悪感などを払拭するために「自然保護」を叫ぶ人が多く、そこで叫ばれる「自然保護」は実際に自然を保護するとは言えません。

 というよりも、自然とは保護できるような性質のものではありません。人間が何らかの意図を持って関与した時点で、それは既に自然な状態ではないわけです。既に人間が関与してしまった部分に責任を取ることは必要とされるにせよ、自然をあるがままに任せることも重要でしょう。

 つまり、様々な生物が自らの生きるがままに生き、生きることも死ぬこともあるがままに任せることが本質的な意味で「自然を大切にする」ということにもつながります。

 ……という話を前提とすると、フジモトの求めるものが何かが明確に見えてくる感があります。

 フジモトは愚かで傲慢な人間達によって滅ぼされた可愛そうな生き物たちを復活させようとしているわけではありません。そのような行為そのものが愚かで傲慢な行為です。そうではなく、フジモトは多様な生物種を出現させ、それによって生き物たちに対して多様な未来、多様な可能性を提供しようとしているのだ、と考えられます。それらの生き物の中には、繁栄する者もあれば絶滅する者もあるかもしれません。しかし、それは彼らの問題であって、フジモトが関与して絶滅を回避させるような性質のものではないでしょう。フジモトが提供しようとしたのは多様な可能性であって、生きる保証ではないのです。

 更に、このような考え方はグランマンマーレの考えを理解できる可能性も出てきます。グランマンマーレは、失敗すれば泡になって消えてしまう魔法をポニョに対して使うことを笑いながらあっさりと提案します。これも、グランマンマーレが提供しようとしたのは多様な可能性であって、生きる保証ではないと考えられます。生き延びるか否かは、ポニョ本人と運で決まります。

フジモトとグランマンマーレと全てありのままに受け入れ飲み込む力 §

 なんだか趣旨の良く分からない話が続きますが (笑。

 いやほんとに良く分かりませんが (笑。

 あらためてまとめ直しましょう。

 と言いつつ、もっと分からない話を挟みますが。

 ポニョの歌のC/Wはフジモトのテーマなのですが、最近やっと聞きました。

 これを聞いて納得。

 フジモトは人間社会に裏切られ、絶望して海に入り、グランマンマーレに救われた男ということになりますね。まあ海に入ったりグランマンマーレに会ったりしなければよくある話です。

 ではなぜフジモトは人間社会に絶望したのか。

 それは、おそらくフジモトという人物が、物事を分かりすぎ、誠実すぎたからでしょう。大衆にも迎合できず、自称「頭の良いエリート」の虚言妄想にも愛想が尽き、誠実であろうとする態度は否定され、フジモトは決定的に心に傷を負います。

 おそらく、フジモトの並外れた誠実さと、癒されるべき大きな心の傷があればこそ、グランマンマーレはフジモトを受け入れたのでしょう。

 ここはポイントです。後でここが問題になります。

 話を戻します。

 前回までの流れを要約すると、フジモトの主義主張は以下のようになります。

  • 生物多様性を信奉する
  • 多様な生物を生み出しはするが、それは彼らにチャンスを与えるためであり、けして最後まで生き延びるように手取り足取り面倒は見ない
  • 更に踏み込めば、人間が自然を保護するなどということは人間の傲慢であり、フジモトができることは「保護」ではなく「ささやかな手助け」「きっかけ作り」に過ぎない

 これは、すべてを受容して受け入れることと等価です。けして、あるべき正しいものと、間違ったものを分けようとはしません。多様であることは価値なのです。フジモトが人間を否定するのは、生物として間違っているからではなく、多様性を否定する傲慢さを持つからでしょう。

 ここで話が飛びますが。

 魔法先生ネギま!というのは、アニメを見ていると分かりませんが、本当は凄い作品です。最新刊の23巻で、ネギは闇の魔法(マギア・エレベア)を会得するため、自分の精神世界で師匠であるエヴァンジェリンと戦うことになります。このエヴァンジェリンは本人ではなく、劣化コピー=人造霊とされます。しかし、本質的な位置づけはネギ自身の「影」です。つまり、自分と「影」の戦いです。これは1つの物語の類型であり、ゲド戦記にも見られるものだそうですが、読んでいないのでそのあたりは断言できません。そして、最終的にネギが到達する解答は、この試練の戦いの真のゴールは師匠に勝つことではなく、「善も悪も強さも弱さも全てありのままに受け入れ飲み込む力」と気づき、師匠の放つ魔法を自らの中に受け入れ「掌握(コンプレクシオー)」します。これによって、闇の魔法

(マギア・エレベア)を自分のものとします。

 以下は、ネギま!コミックスにも書いていない解説になりますが。

 「善も悪も強さも弱さも全てありのままに受け入れ飲み込む」とは言うほど簡単ではありません。何もかもありのままに受け入れるというのは、単に無批判に受け入れることを意味しません。何でも受け入れれば、受け入れたものがそれぞれ反発したって自分が崩壊します。つまり、とてもなく強靱な自己と誠実かつ揺るがない心の軸無くしては、このような受容はなしえないわけです。それに加えて、多様な相手を理解する知性と、寛容の心、妥協しない厳しい心も必要とされます。

 さて。

 全てを包み込む母なる海としてのグランマンマーレとは、このような「全てありのままに受け入れ飲み込む力」の持ち主と考えて良いでしょう。

 そして、フジモト自身も同様の傾向を示すタイプとしてグランマンマーレの前に姿を見せたと考えられます。

 ところが、ここに決定的な大きな矛盾が生じます。しかし、この話題は少し先までおあずけ。

 次回に続きます。

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