概要 §
江戸時代にブランド杉材として使用された四谷丸太は別名高井戸丸太とも呼ばれ、特に良質のものは高井戸村で産出されたという。杉並区の名前の由来になった杉は、杉並村に由来するとされることが多いが、実は高井戸村の方が杉のブランドとしては知名度があったらしい。これは高井戸という地域のあり方を考えるにあたって、無視できない特質であると考えられる。
杉並区の由来 §
WikiPediaの杉並区の歴史より
区名の由来は、江戸時代の初期、成宗・田端両村の領主が青梅街道沿いに植えた杉並木があった事に始まる。この杉並木は明治前になくなった。その後「杉並」の名は村名として採用され、町名、さらに区名となって現在に至る。
同ページの歴史年表よりの抜粋。
- 1889年(明治22年)5月1日 - 町村制施行により、東多摩郡杉並村・和田堀内村・井荻村・高井戸村が発足。
- 1924年(大正13年)6月1日 - 杉並村が町制施行し杉並町となる。
- 1926年(昭和元年)7月1日 - 和田堀内村、井荻村、高井戸村がそれぞれ町制施行し、和田堀町、井荻町、高井戸町となる。
- 1932年(昭和7年)10月1日 - 杉並町・和田堀町・井荻町・高井戸町が東京市に編入、4町の区域をもって東京市杉並区が発足。
このような記述をストレートに受け止めると、以下のように解釈できます。
- 杉並区の名前の由来は杉並木である
- 杉並木は青梅街道にあった
- それは杉並村にあった
- そこは和田堀内村・井荻村・高井戸村ではなかった
- 高井戸村は、杉とはあまり縁がないにも関わらず、杉並区発足時に杉並村と一緒になったために、あたかも杉の本場であるかのような「杉並区」を名乗る羽目になった
このような認識は、高井戸村が良質な杉の産地であったという記述を見ても、それだけでは更新されません。高井戸村は単に杉も扱っただけのことであり、名前に杉の名を冠する杉並村はもっと本格的かつ大々的に杉を扱っていたのだろう……と容易に想像できるからです。
四谷丸太というブランド材 §
江戸時代のブランド材として、四谷丸太という杉材があるようです。
WikiPediaの四谷丸太より
四谷丸太(よつやまるた)は、江戸時代から大正まで、高井戸町を中心に生産していた杉丸太。高井戸丸太とも呼ばれた。
更に概要を見ると以下のように記述されています。
甲州街道、青梅街道および五日市街道沿いに杉丸太の生産地が散在し、これらは四谷に集められて、市場に出た。
(中略)
現在の杉並区宮前一および二丁目から南へ1km、神田川北岸の窪地帯の豪農(内藤家、横倉家、宇田川家)の持ち山に良材が多かった。
つまり、この記述をストレートに解釈するなら、青梅街道沿いを含む広い範囲で杉が生産されており、その本場は高井戸村にあって、別名は高井戸丸太である、と解釈できます。
つまり、青梅街道の杉並木が杉並村の由来という記述は、現在の杉並区内での杉の本場がどこであるかとは直接関係がないことになります。そして、名前に杉の字を冠さない高井戸村こそが本場であったことになります。
言及される四谷丸太=高井戸丸太 §
軽く検索した範囲でいくつか言及されている事例を見つけました。
特に特徴的な月刊 杉 WEB版を紹介します。これは、杉を題材にした媒体のようで、杉並や高井戸の郷土に関する媒体ではありません。
つれづれ杉話 /第2回 「杉並区の杉ものがたり」より
高井戸杉は、吉野杉、北山杉にも負けてなかった!
(中略)
地名の元となったのは、江戸時代の初期にこのあたりのいくつかの村を統治していた領主が、領地境の目印に青梅街道沿いに植えた杉並木。当時から武蔵野は杉の植林が盛んで、建築用材の一大産地として知られていました。江戸に供給された武蔵野の杉というと、四谷丸太、西川丸太(今号のトピックスにもある西川材のことです!)、青梅丸太の三種類があり、中でも四谷丸太と呼ばれた高井戸杉は、「細く長きこと竹の如し。上品にて吉野丸太と同じ」(『武蔵野名勝図会』より)と絶賛されたそうです。
つまり、「高井戸」は特に突出した著名ブランドの1つであり、全国区でも通用するブランドであったようです。しかし「杉並」は名前のリストに入っていません。
位置の特定 §
上記の「現在の杉並区宮前一および二丁目から南へ1km、神田川北岸の窪地帯の豪農(内藤家、横倉家、宇田川家)の持ち山に良材が多かった」という記述だけでおおまかな位置は分かりますが、もう少し具体性が欲しいところです。
しかし、そのためのヒントがありました。
すぎなみ学倶楽部 (5)杉並で栗栽培!-内藤隆さんより
とはいえ、話は簡単ではない。元々高井戸は、“四谷丸太”という良質のブランド杉の産地として知られ、京の北山杉と並んで、東の四谷丸太と呼ばれた。内藤さんの子ども時代には、見渡す限り周囲に杉林が、1985年(昭和60年)まで広がっていたという。最初に行うべきことは、杉林を開墾し更地にすること。杉林を倒す、太い杉の幹を引っこ抜く、それから手作業での“開墾”仕事は3年にも及んだ。
つまり、現在も存在する栗畑を探せば、具体的にそこが高井戸杉の産地の1つであったことが推定可能です。
具体的な場所ですが、Google Mapsの航空写真モードで探すと、割と簡単にそれらしい場所が見つかりました。内藤礫耕農園という名前も地図上に認められるので、上記の内藤隆さんの農園である可能性はありそうです。
ちなみに、内藤礫耕農園は日本テレビのサイトにも紹介されていますが、7色の花が咲く高級住宅街にある花畑
として紹介されており、栗の話は出てきません。厳密には栗を栽培している内藤さんとは別かもしれませんが、無関係ということも無さそうな気がします。
場所は高井戸西2丁目であり、井の頭線富士見ヶ丘駅と人見街道の間ぐらいにあります。「下高井戸5丁目それは下高井戸最後のフロンティア」などと言いつつ散歩の西限界は環八をやや越えた当たりまで、という私には手が届かない領域です。明らかに「下高井戸」というフィールドからは範囲外ですが、同じ「高井戸」という名を持つ地域である以上、気になるのは事実です。
分かったことと分からないこと §
高井戸丸太の本場が、高井戸村のかなり西の方だと分かったことから、下高井戸との縁はそれほど濃くないかもしれない可能性も出てきました。
また、以下の記述から高井戸丸太と江戸城建設は直接的にはあまり関係なさそうだと言うことも分かりました。
WikiPediaの四谷丸太より
明暦の大火1657年(明暦3年)以降、四谷の全勝寺周辺の杉林の若木の皮を剥いで、四谷丸太として出し、後に高井戸周辺で植林を始めた。
さて、ここまでの机上調査であまり明確にならなかったのは輸送手段です。はたして神田川を使って丸太を輸送したのか、という点です。とりあえず、高井戸の丸太は四谷まで輸送されたことは間違いなさそうです。しかし、神田川は四谷には至りません。水路では運べないのだろうか……と首をひねってから気付きました。飯田橋から外堀に入って少し戻るような感じで南西方向に進めば市ヶ谷を通って四谷に出ます。
もう1つ、「高井戸周辺で植林を始めた」という記述の意味です。これが以下のどちらを意味するのかもまだ明確ではありません。
- それまで杉はなかった(or希少だった)地域に杉を植えた
- もともと杉を産出していたが、四谷丸太というブランド材の生産を始めた
感想 §
ここまで林業の世界に首を突っ込まねばならないとは、予測もしていませんでした。しかも、下高井戸ではないとはいえ、高井戸の範疇です。
林業は山でやるものだと思ってましたよ! (←それほど素人なのだ)