ずっと前に読み終わっていたのに、まだ感想を書いていませんでした。
やり残しの残務整理中のこの機会に、概要のみ書いておきます。読了後、ずいぶん時間が経過しているので、大きく印象に残った点のみ書きます。
映画とトラウマ §
この本には、ハリウッド映画などにトラウマが描かれるようになった、という話が出ています。
これを読んで、はたと思ったことがあります。
TVアニメのNARUTOのオープニングアニメーション(中忍試験終盤の時期のもの。「悲しみをやさしさに」little by littleの背景に流れた映像)に、登場人物の幼い時代の心に傷を残すような過酷な出来事を描くカットが連続して出てきていたのです。これは、とても違和感があって奇異に思えました。オープニングアニメーションと言えば、作品の顔であり、いわば綺麗なところを見せる部分です。本編でトラウマが語られるとしても、それは終盤のクライマックスに「実は……」と出てくるようなものであって、最初から見せて視聴者に叩き付けるようなものではありません。
しかし、トラウマを語るという大きなトレンドがあるとすれば、そこで納得ができます。日本のアニメも、そういうトレンドの流れに乗ってきているのだな、としみじみ思いました。
事実よりも求められる「物語」という概念 §
この本で最も印象に残るのは「物語」という概念です。
まず、以下のような文章によって「物語」が提示されます。
p139
理解不可能なものを前にして、学問による解釈が機能不全に陥ったとき、われわれはどうするか。そう、「物語」の機能を要請するのである。もともと物語とは、リアルでしかも説明不可能な事態を消化してくれる機能を持っている。
感想を書くことを、今の時点に引き延ばしたことの意図せざる幸運を噛み締めながら書くなら、この「物語」とは、(この本を読んだときにはまだ未読であった)京極夏彦さんの小説「豆腐小僧双六道中ふりだし」(私の感想)で示される「妖怪」の持つ特徴と機能性とかなり重複する部分があると思います。そして、ミームという概念とも重なる部分が大きいと思います。
おそらく、「物語」と「妖怪」は、より大きな「ミーム」という概念の一部を成すものではないかと思います。
そして、私が抱えていた「もやもや」に対する答えも、このあたりにあるのかもしれません。そして、複数の人達が、互いに関係なく、相互に異なる用語体系を用いて到達した概念の性質が重なり合うことが、その概念の妥当性の高さを示しているのかも知れません。
それはさておき、この本では、求められる「物語」の性質について、以下のように記しています。これは、少年犯罪の増加や、少年による虚構と現実の混同による犯罪の発生、という根拠のない俗説が事実として信じられ、一人歩きをしているか、という状況についての解釈です。
p144
いまや僕たちが求めているのは、理解不可能だが物語化しやすい他者としての犯罪なのではないか。言い換えるなら、今後も僕たちの物語システムになじまない他者は、最初から黙殺されてしまうだろう。海外の猟奇犯罪や外国人の犯罪に対して、一定以上の関心が向けられないのはこのためだ。しかし「佐川一政」「東電OL」「酒鬼薔薇」といった「他者」たちは、理解不可能でありながら、徹底して理解と物語化への誘惑に満ちた他者でもある。そうした「リアルな他者」をいかに産出するか、その手順は反復によって確立された。
このような視点は、私にとってはとても重要です。
このような「物語」システムにおいて、私はいともたやすく悪者とされる側に立たされかねないからです。たとえば、死を軽んじて若者が安易に死ぬようになったと批判されるドラゴンクエストに関しても、昔ドラクエ2のMSX移植を行った立場からすれば他人事にはなりませんし。犯罪ではありませんが、「Linux」という理解と物語化への誘惑に満ちた他者を解釈するために生まれた「オープンソース」という概念もまた「物語」だとすれば、知的所有権で食っている私のような立場の人間には「物語」が厳しい逆風となっているという点で、他人事ではありません。
ここでポイントになるのは、「物語」あるいは「妖怪」あるいは「ミーム」という概念に対して意識的ではない人達は、自分が悪者扱いされた場合のみ「物語」が事実に反すると反論するものの、そうではない場合はいともあっさりと「物語」に乗るということです。たとえば、ゲームが若者を犯罪に走らせるという論に激しく反論する人が、いともあっさりと「オープンソース」という「物語」に身を委ねてしまい、他者の攻撃にまわるような事例があちこちに見られます。(特定の誰というまでもなく、よく見られるパターン)
議論したければ本を読んでから来い §
そのような状況から発生する必然的な問題があります。
それは、議論を吹っ掛けられても噛み合わない事例があまりに多いと言うことです。「物語」あるいは「妖怪」あるいは「ミーム」というのは、ニーズに合致したものが広まるのであって、正しいとは限らないし、論理的に整合しているとも限りません。そして、「物語」はそれを求める人達のニーズに合致していることよって広まります。ニーズに合致している限り、ニーズに合致しない他の言説よりも常に強いのです。たとえ、事実であろうと、ニーズに合致していないければ、それは言説として敗北するのです。
しかし、現実の社会で動いているコンピュータシステムであれ、何らかの社会的なシステムであれ、実際に具体的なものが動くわけで、それは実際にそこにある現実的なものに立脚してなければなりません。いかに、強力な「物語」であろうと、それは現実にシステムを円滑に稼働させるのに十分ではありません。(実際、XML関係でも、多くの「物語」が実際のシステムを作る方向にいろいろな人や組織を動かしているものの、あまり成功していない感じがあります。いわゆる「分かってないビジネスピープル」がやっていることですね。しかし、いくら失敗してもビジネスピープルは滅びません。その理由は、彼らの語る「物語」がニーズに合致しているからだ、と考えるとすっきりします。求められる「物語」を提供し続ける限り、彼らは求められるのです。)
そのような観点から見た場合、私は「物語」に立脚して生きるわけには行きません。たとえば、技術解説を書くなら、そこに「できる」と書いたことは、実際のシステムでもできないと困ります。たとえ、どんなにニーズに合致した「物語」であろうと、それを具体的なシステム構築の手順として書く訳には行きません。そんなことをすれば、「動かないぞ、金返せ」という罵声が来るだけです。
というわけで。本の感想とはかけ離れた結論ですが。
議論を望むなら、この「心理学化する社会」と読んで「物語」の概念をしっかりと把握してから来て下さい。
あるいは、それがハードに思えるなら「豆腐小僧双六道中ふりだし」を読んで「妖怪」の概念をしっかりと把握してからでも良いです。
私の書くものは、それらの概念を前提としているので、それを把握しないで議論の臨もうとしても噛み合わないだけです。