正しいかどうかも定かではない思いつき、アイデアをメモっておきます。
メモなので無意味監獄です。とはいえ、そんな話題を書いても、みんな興味を持たないのは明らかなので、はたしてどれほどの意味があると言えるのか?
意味はなくても、伊達と酔狂はある、と言うことで書いておきます。
異なる立場に立って考えることができますか? §
世の中には、いろいろな立場の人達がいます。
立場によって、思うことも違えば、信じるものも違います。
しかし、人間は一人では生きていけませんから、異なる立場の人達とも上手く折り合ってやっていく必要があります。
けして、自分が正しいと思うことを主張するだけでは生きていけません。相手の主張も受け入れねばなりません。
(いや本当に、私の人生もそんなものです。オータムマガジンですら、何でも言いたいことを書いているわけではありませんが、お仕事となれば、自分の言いたいことよりもお客様優先となります)
では、異なる立場の人達と折り合いを付けるというのは、具体的にどういうことでしょうか。
それは、お互いが、「やむを得ないな」と思って妥協する点を見いだすこと、と言えます。
たとえば、最も分かりやすい実例は値引き交渉ですね。売る側は高く売りたいが、買う側は安く買いたいわけです。しかし、売る側は原価割れにはできませんし、買う側は財布の中身より多くは出せません。このような条件下で、双方が駆け引きを行いながら、妥協点を探ります。
この例は金額を決める交渉ですが、それ以外にも、世の中には様々な妥協点を探る交渉があります。
ここで問題なのは、このような交渉が成立しないことがある、と言うことです。
たとえば、値引き交渉であれば、原価割れで売ることを要求したり、財布の中身より多くの金額を出させることを要求するような行為があれば、それは有意義な交渉が成立しているとは言えないということです。そのような交渉は、絶対に原価割れはできない、財布に入っていない金は出せない、という前提のある時には、絶対に折り合いを付けることができないのです。
では、どうすれば、このような絶対に折り合うことのない無意味な交渉を回避できるのでしょうか。
それは、「異なる立場に立って考えること」によって実現されると思います。たとえば値引き交渉の場合、客は自分の立場を主張するだけでは駄目で、店の事情というものがあることを考えねばなりません。店も商売でやっている以上、値引きできる範囲には限度があります。店の事情も考えた上で、店側が許容しうる範囲内で最も安い値段を引き出すことが買い手にとって最善の結果になります。それ以上安く値引きを要求しても、店側は売らないから、これが最も安い買い物となります。
具体例 §
インターネット上で、「異なる立場に立って考えること」が重要であると思わせる事例は多くあります。
たとえば典型的なのは、著作権に関する問題です。たとえば、音楽の不正コピーで、「お金を払う価値がないからコピーで良いのだ」というような主張です。
これは値引き交渉で言えば、「そんな子供の落書きみたいな書に金を出せるか。タダで寄越せ」と言うのに等しい性質を持ちます。もちろん、売る側は仕入れに原価がかかっていますから、タダで寄越せと言わせて渡せるわけがありません。もし、それが欲しいのであれば、両者の折り合う点を見いだために交渉するしかありません。そうでなければ売買不成立という結末を迎えるだけです。
(音楽のコピー問題では、単純な値引き交渉ではないから、単純に値段を決めるという意味ではありません。念のため)
コピー可能なデジタルデータの場合は、売買不成立という結果で終わらない点で、問題をこじらせやすい性質があると思います。売買不成立でもコピーは可能なのです。そのような状況で、「コピーで良いのだ」というオレ論理を押し通そうとすれば、当然相手の態度も硬化して、コピーコントロールCDのようなシステムを導入せざるを得ない、というムードも生まれます。
これらの問題を解決するためには、相手の立場に立って考え、どこで折り合いを付けられるかを探る必要があるでしょう。相手が絶対に飲めない条件を、それと自覚せずに出し続けることは、おそらく問題解決から最も遠い選択と言って良いのではないかと思います。
付録・分かりやすい言葉で言い直してみよう! §
インターネット上の知の問題について、これまでいろいろと考えてきました。それについて、いろいろオータムマガジンにも書いてきました。(多いので、個別のコンテンツへのリンクは示しません)。
それらのコンテンツで問題になるのは、使われている言葉の難解さです。たとえば、コンテキストという言葉1つ取ってみても、「わかんねーよ、なんだそりゃ」と言うのが普通の反応だと思います。
しかし、物事の背景にある構造について考えると言うことは、(難しい言葉で言えばメタの階層を1つ上がって抽象度の高い領域に入るということになりますが)、要するに具体的に説明しにくいものを扱うということになって、分かりにくいのは当然の成り行きとなります。
ですが、ある程度、思索が固まった形をなしてくると、逆により具体的な表記に置き換えることも可能になってきます。それが可能という程度まで、情報とコンテキストの問題は自分の中で固まってきた感じがあります。
そのようなわけで、「コンテキストが不在である(暗黙のオレコンテキストしか存在しない)ことがインターネット知の問題である」という主張は、「インターネット上の知の問題は異なる立場に立って考えることの欠如」という言葉で、より具体的に分かりやすく表現できるのではないかと考えてみました。
それが正しいかどうかは分かりませんが、言葉にはなったので書いてみましょう。