なにゆえに自称作家の遠野秋彦が赤松健を論じるのか §
ここでは、赤松健という漫画家を論じていきたいと思う。
それを行うにあたって、自称作家を名乗る遠野秋彦の名前で行わねばならない理由というのは、おそらくは最初に説明が必要だろう。もちろん作家とは小説を書く人を意味し、マンガ評論家ではまったくあり得ない。少なくとも、川俣晶名義ではコミックの「魔法先生ネギま!」の感想を書いているし、トーノZERO名義ではアニメの「魔法先生ネギま!」の感想を書いているので、これらの名義を使えばその延長線上でこのような文章を書いても不自然ではない……かもしれない。
それにも関わらず、あえて作家としての名義を持ち出す理由は、これがクリエイション論であり、ファンとしての感想ではないためだ。つまり、これはファンには書けない文章なのだ。新しい何かをクリエイトすることに対して命を削った者、つまり同格のクリエイターでなければ書けない文章なのだ。
従って、赤松ファン、あるいは赤松アンチファンが読む場合は、君たちの視点に置いて書かれていないという前提をよく踏まえた上で読み始めて欲しい。
問題提起・なぜ舞-HiMEはネギま!を恐れるのか §
2004年10月より、「舞-HiME」という非常に興味深いアニメが放送されている。学園を舞台にした戦う美少女達のドラマではあるのだが、通常のそのようなアニメの型にまったくはまっておらず、極めて斬新である。そして、ファンの支持も厚い……と私には見える。
これより3ヶ月遅れて、赤松健原作の「魔法先生ネギま!」のアニメ放送が始まっている。全く個人的な印象を述べれば、「ネギま!」はヒットするかどうか極めて怪しいと思っていた。アニメ化にたどり着けない可能性も極めて高いとすら思っていた。だから、アニメの放送開始にあたって、よくぞここまで頑張った、と思った。そして、先行する人気アニメ「舞-HiME」の盤石の人気に勝つのは難しいとも思った。
しかし、このような個人的な根拠のない印象を全く裏切るある言葉に出合った。
「舞-HiME」は、「ネギま!」よりも早く放送開始できなければ負ける、という危機感を持って、努力して「ネギま!」に先行して放送開始されたのだという。
いかに根拠がない個人的な印象とはいえ、それを裏切るようなこの言葉はどう解釈すれば良いのだろうか。
この文章は、この疑問に答えを付けるために書かれている。
目次 §
注: 赤松健とクリエイション論には問題提起から結論に至る文脈、コンテキストがあります。つまり、それまでに行われた説明について読者は分かっているという前提で文章が組み立てられています。そのため、第1回から順を追って読まない場合、内容が理解できないか、場合によっては誤解を招く可能性があります。
表紙
赤松健とクリエイション論 第1回 「問題提起・なぜ舞-HiMEはネギま!を恐れるのか」
赤松健とクリエイション論 第2回 「第3の登場人物『宮崎駿』」
赤松健とクリエイション論 第3回 「重要な手がかりとなる赤松健インタビュー」
赤松健とクリエイション論 第4回 「組み合わせの創作法」
赤松健とクリエイション論 第5回 「新しいことにチャレンジする」
赤松健とクリエイション論 第6回 「つらいことが起こらないドラマ」
赤松健とクリエイション論 第7回 「ずば抜けた成功者の条件とは」
赤松健とクリエイション論 第8回 「『舞-HiME』は成功者の条件を満たすか?」
赤松健とクリエイション論 最終回 「将来について」