新しいことにチャレンジする §
狭義のクリエイターは、同じところにとどまっていることができない。
クリエイトを指向し続けるためには、身体が勝手に新しい領域に動きたがる。
赤松健がまさに狭義のクリエイターであることは、以下の文章から読み取れる。
確かにネギだけは、はじめて自分で目標を持って、戦って成長していくというキャラにはしています。「スター・ウォーズ」でルークが最後に父親を倒すために強くなっていくというような、半分はそうした少年漫画的な感覚を骨子にしてはいます。『ラブひな』で赤松ワールドは完成したとよく言われてきたので、そこから脱却しようと半分は冒険を入れた。しかし残りの半分は今までの「赤松ワールド」です。「赤松ワールド」はやっぱり自分でも好きですよ。
赤松健は、完成された赤松ワールドを発展させようとは思わず、そこからの脱却を指向している。あえて大ざっぱに分類するなら、完成形を発展させるだけならアーティストであるが、脱却を指向するのは狭義のクリエイターである。
もちろん、私も同じところに止まっていられない人種であるが、宮崎駿も同質の人間である。彼は、他の誰も知らないものを素早く知り、それを伝え広めることが好きであるらしい。しかし、誰も知らないものを他人に知らしめると、その情報は誰もが知る情報になってしまう。もし、伝える続けたいと思うなら、新しい情報を求め続けるしかない。それがストレートに反映される宮崎アニメにおいては、世界はけして発展しない。新しい世界に脱却するだけである。
念のために付け加えると、実は客は自ら望んでいるものを把握していない。客が欲しいと口にするものを作っても、それは客を満足させられない。客は常に過去に面白かった作品からの連想で、面白いはずの作品を構想するが、そのように構想できるという時点で、既に新鮮な出会いの喜びから遠ざけられている。実際に客を満足させうる可能性を持つのは、想像を絶するほど大きな発展か、あるいは、全く斬新な新しい世界のクリエイトのみである。
想像を絶するほど大きな発展など、継続的に実現することは困難であろうという理由から、事実上、継続的に客を納得させ続けることができるのは、狭義のクリエイターだけであろう。それは、宮崎駿の実績が示していることであり、もしかしたら赤松健が進むかもしれない道である。
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注: 赤松健とクリエイション論には問題提起から結論に至る文脈、コンテキストがあります。つまり、それまでに行われた説明について読者は分かっているという前提で文章が組み立てられています。そのため、第1回から順を追って読まない場合、内容が理解できないか、場合によっては誤解を招く可能性があります。
表紙
赤松健とクリエイション論 第1回 「問題提起・なぜ舞-HiMEはネギま!を恐れるのか」
赤松健とクリエイション論 第2回 「第3の登場人物『宮崎駿』」
赤松健とクリエイション論 第3回 「重要な手がかりとなる赤松健インタビュー」
赤松健とクリエイション論 第4回 「組み合わせの創作法」
赤松健とクリエイション論 第5回 「新しいことにチャレンジする」
赤松健とクリエイション論 第6回 「つらいことが起こらないドラマ」
赤松健とクリエイション論 第7回 「ずば抜けた成功者の条件とは」
赤松健とクリエイション論 第8回 「『舞-HiME』は成功者の条件を満たすか?」
赤松健とクリエイション論 最終回 「将来について」