「というわけで、感想の続きだ」
「まだ続くのかい」
「実は公式サイトのプロダクションノーツを見て目から鱗が落ちた」
父親関与の問題 §
「実は父親の関与度の度合いが思ったよりもずっと大きいようだ」
「父親は宮崎駿だね」
「基本的にはシナリオのかなり細かいところまで宮崎駿がやっているようだ」
「でも変更した点もあるのだよね」
「そう、そこだ!」
「えっ?」
「コクリコ坂という映画、宮崎駿作品には見えない。それだけ関与していながら宮崎駿作品には見えない。だから、もっと関与は少ないものと思っていた」
「言っている意味が分からないよ」
「吾朗マジックだよ」
「は?」
「他人の脚本を小修正しただけで、自分の映画にしてしまった。これがマジックだよ」
「なんだよそれは」
「この映画の構成にはいくつも難点があるんだ。だから、上手く収まらない部分がある。明らかにバランスが悪い部分がある」
「それがどうしたんだ?」
「その理由の少なくとも一部は分かったよ」
「なんだいそれは」
「だから、他人の脚本を小修正で自分の映画に仕立ててしまうとすれば、どうしてもバランスの悪い部分が残る。でも、ある意味でそれは当然なんだ。ジブリの帝王は宮崎駿で、彼を立てないと物事が動かない。だから、彼が敷いたレールに沿って走ることは重要なポイントなんだ。でもさ。当然それだけでは上手く行かない。宮崎駿のコピーなんて誰も欲しがってはいないからだ。宮崎駿映画は確かに人気があるが、もう1人の別の宮崎駿が同じような映画を作った場合、それが見たいかというと別問題だ。既に分かってしまった映画はそれだけでニーズが落ちる」
「矛盾だね」
「だからさ。宮崎駿を立てつつ別の映画を作るしか無く、それによってバランスの悪い部分が出てくるのはある意味でやむを得ないことなんだよ」
「でも、改善できるなら改善しないじゃない」
「改善するのは簡単さ。ただ製作資金が集まらず、スタッフも集まらないだけだ」
「ぎゃふん」
建物論 §
「更に目から鱗が落ちた」
「それはなんだい?」
「以下の台詞は特にこの映画のなかでもいいと思った台詞だ」
「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」「人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!?」「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」
「これがどうした?」
「これは宮崎駿のシナリオには無く、宮崎吾朗監督が追加したものだそうだ。それが何を意味するか分かるかい?」
「確かにいい台詞だけど、そんなに重要?」
「そうだ。重要だ。建物の保存という問題の認識のレベルが高いことを意味する」
「どういうこと?」
「建物の保存という意味では、たとえば以下のようなことが行われる」
「これはダメってこと?」
「そうだ。ダメだ。古民家を移築すると配置が変わってしまうことが多いが、実は母屋と長屋門などの位置関係が存在する。地形とも関係する。建物だけ別の場所に残しても建物の保存にはならない」
「なるほど」
「外装だけ残すというのは、『建物を保存しました』というための方便としてしばしば批判される。ビルを建て替えるとき、下層部のみ外装を残して中身は全部入れ替えるわけだ」
「単なる見せかけの保存ってことだね」
「うん。こういったインチキ保存が横行しているから、『それで保存したなんて思うなよ』って感覚がきちんと共有できていると思ったよ」
「そうだよね。人が生きてきた記憶には建物の位置関係も、建物の内部も関係するよね」
「だからさ。理事長が土木建設系の企業の重役っぽい感じで出てくるわけだ。そういう問題の最前線にいる人なんだろう。だからさ、この映画の軸は少年が建物保存の演説をぶって、ヒロインが掃除するというアイデアを出して、みんなで綺麗にして土木建設系の偉い人が喜ぶという話なんだね」
「えっ? 恋愛じゃないの?」
「恋愛は実は副主題なんだ。だから、理事長がカルチェラタンを見に来る前の電停で実はほとんど決着が付いてしまう。物語は、理事長がカルチェラタンを見て終わる。そのあとは、ほとんど蛇足だ。形式的に終わるために必要とされているに過ぎない」
「なるほど。だから文字通り『駆け足』で終わるわけだね」
「うん。だから魔女宅のトンボ救出劇が蛇足であるのと同じように、物語はもう終わっているのに、形式的にピリオドを打つために話が続いてしまうのだ。だから軽くて短い。あやふやな問題に決着が付いて本当はこれが結末のはずなのに、とても軽くて短い」
「それが宮崎吾朗監督の答えだってわけだね」
「その判断は間違っていないとおいらは思う」
「そんなに?」
「古い建物を愛着を持って丁寧に使い続けていれば、おいらもニコニコしながら見に行くよ」