最終回を既に書きましたが、1つだけ補足します。
越境の必要性 §
下高井戸と世田谷の異質さと、それがいかに自覚されないかという話を書いてきました。
しかし、それらの前提を踏まえても、やはり私は世田谷側に越境していかねばなりません。というのは、下高井戸という枠内だけで、下高井戸を理解することはできないからです。
境界をまたぐ一例 §
たとえば、一部の北沢側の支流の上流部は、下高井戸側に越境しています。
既に紹介した事例ですが、以下の開渠+暗渠の水路は、境界をまたいでいます。コンクリート板暗渠は下高井戸側、開渠は世田谷側と思われます。(道路部分はどちらに含まれるか未確定)
このような事例を下高井戸内部だけで解釈することは無理があり、どうしても越境していかねばなりません。
ちなみに、この事例は下高井戸と世田谷の暗渠文化の差異を浮き彫りにしています。一律にコンクリート板暗渠化している下高井戸側と、開渠のまま放置している世田谷側は、たった1つの水路の扱いですらこれだけの差が出るのかと思わせてくれます。
下高井戸宿本陣の問題 §
江戸時代の甲州道中(甲州街道)の宿場町としての下高井戸を見たとき、本陣の位置が気になります。ここは、街道南側であり、現在の桜上水駅車庫の裏手あたりに位置したと思われます。つまり、「本陣」は現在の世田谷に極めて近い位置にあったと考えられます。そのため本陣の立地を考えたとき、どうしても世田谷側の状況も見なければなりません。
その他、人や金も境界を越えて動いていたらしいことも加味すれば、下高井戸を見るために越境することは不可避といえます。
まとめ §
というわけで私はこれからも境界を越えて松原や赤堤や桜上水や上北沢に歩いていくことになるでしょう。(だから、次の文章で書く勝利神社も、けっこう気になる存在だったりするわけですよ!)