永福朝顔園は史料が少ない時代なので位置の特定は難しいかと思いましたが、割とあっさり、大まかな位置が分かりました。検索したら以下のようなブログ記事がありました。
この記事から正確な場所が分かるわけではありませんが、【小学校】と名前をぼかして書いている小学校は、永福町の世田谷寄りという条件から永福小しかあり得ません。ここに隣接しているどこか、ということになります。しかし、太い道があるという記述はどこを示しているのか特定しきれませんでした。
ちなみに、このブログ記事は少し話を盛っているところがあって、天皇陛下はあさがおを献上しただけで見に来たわけではないし、バスの話や病気の話は永福朝顔園ではなく、東京朝顔園の話と思われます。そのような意味で信憑性には少し「?」が付きます。しかし、永福小周辺のどこか……という推定位置は他のヒントとの整合するのでおそらく承認しても良いでしょう。
また出たぞ・キリスト教 §
次の問題は、永福朝顔園を調べていたらこれもキリスト教の話に行き着いてしまったことです。
ここより引用
朝顔教会は1950年9月に、当時杉並区永福町に居住されたTEAMのジェームス・フレンズ宣教師夫妻、そしてドナルド・マカルパイン宣教師夫妻、バーナード・ホーリツ宣教師夫妻の協力のもと、「朝顔園」の倉庫を借りて伝道活動をスタートした教会で、
江渡狄嶺を攻めてもキリスト教、永福朝顔園を攻めてもキリスト教に行き着き、どうもある時代の知識人はキリスト教と密接に結びついているようです。
さて問題はその先です。
また、PBAに務め神学校に通われた尾崎一夫兄(現在「アンデスの声」宣教師)は朝顔教会の教会学校の教師をし、同じく横内澄江姉(故人:元アンテオケ宣教会の宣教師)は朝顔教会に住み、PBAに通っていました。その後お二人とも日本の海外宣教の草分け時代に宣教師となり、朝顔教会も支援宣教師としました。このように、朝顔教会はHi-B.A.、PBA、海外宣教師との間で密接な協力関係が続き、今日に至っています。
ここで、尾崎一夫は永福朝顔園を作った尾崎哲之助と同姓です。これは偶然なのか。それとも、何らかの関係者なのか。関係者ゆえに紹介されて倉庫を利用する関係になったのか。そのあたりははっきりしません。
ちなみに、尾崎一夫は1932年山口県下関市出身。尾崎哲之助は1883年愛媛県出身で、孫ぐらいの年の差。出身地は近くもないが遠くもない微妙な距離で、この程度なら遠い親戚がいてもおかしくない距離でしょう。
ちなみに、尾崎一夫はBCLブームにおける「アンデスの声」の専属日本語アナウンサーだったようです。
薔薇と朝顔 §
永福朝顔園を調べるとなぜか初代薔薇族編集長のブログに辿り着きました。
大学時代の4年間、夏休みは永福朝顔園でバイトしたと書かれています。
このブログ記事の特徴は、皇太子が永福朝顔園に来たときの様子が生々しく書かれているところです。
また、
人に使われたのは、このときだけだったけれど、尾崎さんには感謝するばかりだ。
……という記述から考えると、尾崎哲之助という人は、朝顔のみならずキリスト教の教会も薔薇族も産み出したことになります。教会と薔薇族が両立する文化なのかは分かりませんが……。
それを言うと、皇太子と教会が両立するのかも良く分からないのですが、おそらく尾崎哲之助という人は花にしか興味がなかったのでしょう。
ちなみに、薔薇族が「薔薇」という花の名前を冠しているのは尾崎哲之助の影響があるのでしょうか?
補足 §
東京朝顔園は 昭和28年(1953)5月8日開設。(その前は永福朝顔園)
永福小は【昭和26年4月大宮小学校から分校して同校内に「東京都杉並区立永福小学校」として開校】。
永福朝顔園と永福小が存在していた時期は少しかぶっている可能性があるので、【東京朝顔園が移転して跡地に永福小ができた】という解釈はおそらく成立しない。