失礼ながら敬称略で赤松健と書かせていただきます。
『魔法先生ネギま! 〜もうひとつの世界〜 第1話「壊滅!?ネギパーティ!!」』の特典でもらった同人誌「崖の上のネギま?」はかなり生々しい情報満載で、赤松健の人物像が浮かび上がってきた感じがあります。
先に結論は書くと以下の通りです。
- 「漫画読み」と「アニメの人」に分けるなら「漫画読み」である (これは当たり前のことではない。アニメを見る必然性を持たないことは「オタク」分類において特別の立場を想定しうる)
- オタクを3世代に分類する3世代論に対しては「第1世代」に属する (これは単純に「年齢」から分かることではない。かつての第1~2世代オタクであっても、現在は第3世代オタクに合流している例が珍しくない)
ここではこの結論に至る仮説を書きますが、けして信じないように。内容を鵜呑みにして丸ごと信じるのは、愚かさの発露です。
補足・「崖の上のネギま?」とは何か? §
一部ショップでネギま!27巻(OAD付き)を購入する際に入手できたものです。原作者自らが作成した小冊子であり、出版社は関与していないようです。
前置きは「こち亀」から始めよう §
回り道のように見えますが、まずは話を「こち亀」から始めましょう。
麻生太郎元首相が両津勘吉の銅像の除幕式で原作者の秋本治には挨拶したにも関わらずラサール石井に挨拶しなかったのでラサール石井が怒った、という事件があります。こち亀のファンを名乗りながら、主人公の声優も知らないのはおかしい……といったリアクションがおそらくは多数派でしょう。
しかし、私の感覚からすれば、大好きな漫画作品の主役声優の名前を知らないことは、至極よくあることで、当たり前のことでしかありません。たとえば、私は「デスノート」や「のだめカンタービレ」が好きですが、それらの作品のアニメ版で誰が主役の声優をやっているのか全く知りません。もっと言えば、それらの作品のアニメはほとんど見ていません。
なぜそうなるのか……といえば、「漫画読み」という人種は「漫画を読む」ことで全てが完結する人種だからです。彼らから見たアニメとは、色が付いて動いて喋る劣化コピーに過ぎません。そういうものがある、という認識は持っていても、積極的に見たいとは思わないでしょう。とっくに終わった話をかなり遅れてやっているだけでなく、長々とだらだらと引き延ばし、しかも元作品とは似ても似つかぬ内容に堕していることも珍しくありません。
このような状況は、金魚屋古書店というコミック作品で非常に上手く表現されています。この作品では、多数のコミックを扱う古書店を舞台にしていますが、この中に「同じ作品について語っているにもかかわらず、全く会話が成立しない人たち」が来訪するエピソードがあります。彼らは「アニメの人」と呼ばれます。金魚屋古書店の関係者つまり「漫画読み」と「アニメの人」が意思疎通を成立させるには、月刊OUTに掲載された「ゆうきまさみ」のアニパロコミック(本当は4Pなのに2Pしか掲載されなかった)という、かなり古くレアなコミック作品を必要とします。それほどまでに、両者の溝は大きいのです。
もう1つ例を出しましょう。2009年放送の「真マジンガー衝撃!Z編」というアニメがありますが、この作品に対するリアクションもコミュニケーション不可能というぐらい決定的に2つに割れている感があります。つまり、「すげえ」という感嘆と「わけわかんないもん作ってイメージ壊すな」という怒りの二極分化です。その構造も、まさに「漫画読み」と「アニメの人」の超えがたい溝と言えます。なぜなら、もともとマジンガーの世界はコミックの世界とアニメの世界がコミュニケーション不可能といってよいほど断絶していたからです。たとえば、ボスボロットの名前を初めて紹介する際、「ジャンジャジャ〜ン」という言葉を入れる「真マジンガー衝撃!Z編」は明らかに「ジャンジャジャ〜ン ボスボロットだい」を前提していて、漫画読みのためにつくられたアニメです。しかし、それはボスボロットが「やられ役」ではなく主役を張った「ジャンジャジャ〜ン ボスボロットだい」や「おなり〜っ ボロッ殿だい」を知らない「アニメの人」には永遠に理解不能の世界といえます。もっと具体的に言えば、「僕はマジンガーを知っている」と思いこんで一片の疑いも持たない「アニメの人」は、ブスボロAも科学要塞公衆便城もそのようなものが存在するという可能性すら考えることもできず、認識が決定的に断絶します。
つまりまとめると、以下のようになります。
- 「漫画読み」と「アニメの人」は、互いの間に極めて深い認識のギャップが存在する完全な別人種である
- 「漫画読み」から見てアニメとは「存在は知っている」「興味がないこともない」「見なければならない強い必然性は持っていない」「実際にはあまり見ていない」「詳しい知識は持っていない」というものである。つまり、ちょっと気になることもあるが、見なくても何ら困らないもの
つまり、麻生太郎元首相が「漫画読み」だとすれば、こち亀の主役声優が誰か知らなくても何ら不思議ではないし、TBSのドラマ版こち亀の仕掛け人が「漫画読み」だとすればラサール石井を主役に据えるという発想を持っていないとしても、何ら不思議ではないことになります。
赤松健は「漫画読み」である §
さて、「崖の上のネギま?」の内容から分かることは以下の通りです。
- アニメはほとんど見ない (ハルヒすら見ていないとすれば、まして他の作品を見ているとは考えにくい)
- しかし、多くの漫画作品は読んでいる (コンビニでコミックが縛られて読めなくなったというぼやきは、かなり読んでいることを示す)
この2つの特徴から、赤松健は「漫画読み」であり、「アニメの人」ではない、と位置づけることが妥当だろうと思います。従って、彼はアニメを見ないし、見る必要も持っていません。お客様を大切にするという観点や、他の何らかの理由によって「アニメを見たい」という気持ちはあるにせよ、それを遂行する必然性は持っていないわけです。
「萌え」というもう1つの世界 §
この結論はかなり大きな意味があり、「崖の上のネギま?」から得られた大収穫とも言えますが、実は1つの大きな疑問があり得ます。
実は、世界を「漫画読み」と「アニメの人」の2つに分ける方法論には決定的な問題があります。それは、「萌え漫画」も「萌えアニメ」も同じように受け入れて消費する「オタク」の存在を説明できないことです。
この問題に対応することは実は容易です。
世界は実際には「漫画読み」と「アニメの人」の2つに分割されるのではなく、実際には「漫画読み」と「アニメの人」と「萌えの人」という3つに分割されると考えられます。「萌え漫画」は「漫画」に属さず、「萌え」に属します。同様に、「萌えアニメ」は「アニメ」に属さず、「萌え」に属します。従って、「萌え漫画」も「萌えアニメ」も同じように受け入れて消費する「オタク」は、「漫画読み」でも「アニメの人」でもない別人種「萌えの人」であり、矛盾は起きないことになります。
より詳しく説明しましょう。まず、世界に通用する文化となった日本の漫画やアニメは、ジャンルの境界がアートに隣接するほど高度化したと言えます。そのような世界から送り出される「表現」は芳醇かつ多様であり、破格の豊かさを持ちます。
しかし、その豊かさは良いことだけをもたらすわけではありません。多様化した表現を受容する能力を持たないがゆえに、作品の受容そのもに失敗する層が生まれてしまいます。芸術的な作品であれば、そのような層は「発生して当たり前」とも言えますが、実際には通俗的なヒット作であっても、受容に失敗する人たちが相当人数の「層」として出現しています。煩雑になるので、なぜ出現するのかという話には触れません。
彼らは、世間でヒットしているメジャーな作品(たとえば、週刊少年ジャンプ掲載作やそれを原作としたアニメ)の受容には失敗していますが、何かの作品を求めていることも事実です。従って、彼らを救済するためのジャンルにニーズが発生します。
これがライノベだと考えられます。ライノベは、漫画やアニメでは文字以外で表現されることが多い「感情」も、分かりやすい直接的な言葉で説明される等、表現を説明的で分かりやすい水準で抑制することで、彼らのニーズに対応するように変化していったと考えられます。
このライノベの方法論を漫画に適用したものが「萌え漫画」でありアニメに適用したものが「萌えアニメ」であると考えられます。
これらの作品を「ノベル、漫画、アニメといったジャンルにとらわれず」「萌え方法論が適用された作品であれば」どれでも受容しているのが、ここでいう「萌えの人」です。
では、赤松健も「萌えの人」でしょうか? ネギま!は「萌え漫画」でしょうか?
いずれも答えは明瞭にノーです。
赤松健は「ジャンル」に強い偏りが見られ、「ジャンルにとらわれず」という特徴を満たしません。また、「ネギま!」は表現が極めて豊かであり、「説明的で分かりやすい水準で抑制」してはいません。
従って、この分類において、赤松健は「萌えの人」でも「アニメの人」でもなく「漫画読み」であり、ネギま!も「萌え漫画」ではなく「漫画」です。
オタク3世代論 §
ここでもう1つの話に変わります。
複雑な経緯ははしょって、要約して話を進めます。
オタクはおおむね以下の3世代に分類でき、それぞれ別個の人種であると考えられます。このような分類は大ざっぱすぎて問題や矛盾も多く抱えているのですが、便宜上この解釈で進めます。
- 第1世代・自分の生き方に他人からオタクのラベルを貼られた世代
- 第2世代・オタクになるために勉強した世代
- 第3世代・オタクになるために勉強しなかった世代
ちなみに第2世代とは、第1世代の仲間に入るために、彼らの常識的なネタであるヤマトや古い特撮を見て勉強した世代を意味します。第3世代とはそのような勉強を行わず、「萌え」という合い言葉を共有することで相互に互いを「オタク」と認識し合うことでオタクになった世代と言えます。
ただし、この「各世代」は実際には年齢やオタクになった時期だけで分類されるものではなく、性質による分類も含むことに注意が必要です。たとえば、年齢的には第1~2世代であっても、何の努力もせずに成果だけを要求するようになった者達は第3世代に属します。つまり、「崖の上のネギま?」にPC-8801や8086というキーワードがあるから赤松健は第1世代オタクである、という解釈には直結しません。
さて、この3つの世代にはオタクという概念に対して決定的な認識の差を持ちます。
- 第1世代・オタクとは卒業するものである
- 第2世代・オタクとは勝ち取るものである
- 第3世代・オタクとは当然の権利である
「卒業」という概念は、オタクという立場が社会的に正しいあるべき状態ではなく、本来は解消されることが望ましい、という認識を示します。より直接的には、「漫画やアニメを卒業しなさい」と親や教師などから叱られた経験を持つ、とも言えるかもしれません。
しかし、このような認識を持つのは第1世代だけです。第2~3世代はオタクであるということは素晴らしい価値あるものであり、オタクになることは一種の社会的なゴールであり、尊敬されるための方策であると認識されている可能性があります。オタクという概念に、「脱却すべき否定的な意味合い」は含まれていないでしょう。
さて結論です。
「崖の上のネギま!」で特に注目したのは「卒業」という言葉が使われていることです。この言葉をオタクに対する概念として持つのは第1世代だけだと考えられます。
従って、赤松健は第1世代オタクであるという仮説が成立します。
重要な補足 §
最後に重要な補足を付加します。
赤松健が「漫画読み」だという仮説が事実だとしても、それは「アニメの人」や「萌えの人」を軽視しているであるとか、軽視して良いという話には直結しません。
赤松健が「第1世代オタク」だという仮説が事実だとしても、それは「第2~3世代オタク」を軽視しているであるとか、軽視して良いという話には直結しません。
まずお客様は大切なものである、という基本原則が驚くほど貫徹されている赤松健において、作者本人の立場がどうであるかということと、客の嗜好を満たすことは別次元で動いているように見えます。
たとえば、ネギま!は「萌え漫画」ではありませんが、「萌え要素」だけを表面的に読み取ってもお腹が一杯になるように描かれています。その水準で満腹して満足してお金を払うお客様も、とても手厚く大切にされています。
であるから、読者が何者であろうとも、(少なくともお金を払っている客である限り)、可能な限り赤松健によって尊重されることを期待して良いし、その部分において赤松健が「漫画読みである」ことも「第1世代オタク」であることも、全く関係のないことだと言えます。