243時間目の冒頭で亜子は入浴しています。最初は身体を小さく丸めていますが、ナギへの告白を決意して全裸で立ち上がり、「何の告白だい」と奴隷長と質問されて慌てます。
なぜ風呂なのか・なぜ全裸なのか §
このシーンは性欲はあるが世間を知らないガキでスケベな男性オタクへのサービスのために、必然性は無いのに風呂場のシーンとして全裸に描いた……のではないと考えられます。
このシーンにおいて、「亜子の身体」とは「亜子の心、本音」を間接的に表現するための手段として選択されています。つまり、服を着た亜子とは「本音を隠した亜子」であり、「全裸の亜子」とは「本音を晒した亜子」になります。
そして、当初は本音すらも身体を丸めて湯の中に沈めて表に出すことをためらいます。
続いて、本音を勢いよく白日の下に晒して告白する、という心情が「勢いよく全裸を人目に晒す」という身体的描写によって間接的に描かれています。
従って、この場面において恥ずかしいのは「身体」ではなく「本音」です。それゆえに、奴隷長からの質問に顔を赤らめて慌てて恥ずかしがる亜子が気にするのは、「裸を見せたこと」ではなく「本音を晒したことに」にあるわけです。しかし、身体が「本音」を表現する手段である以上、表現としては「身体を晒したことを恥ずかしがるようなニュアンス」も間接的に含まれることになります。
「女をなめない」とはどういうことか §
このシーンにおいて、主要な目的はあくまで「心」を描くことにあります。身体を描くことはその手段であって目的ではありません。弱く傷つきやすく、しかし勇気を持って苦難を乗り越える力を持つ「心」こそが主役です。
であるから、この描写は「女をなめていない」のです。全力で「女」を描くことと向き合っていて、全裸であっても胸を張って誇らしく誰に対しても提示できます。
一方で、「心」を描くための努力も払わず、単に必然性もなく裸を描くような作品も珍しくありません。そういう作品はやはり「女をなめている」と思います。
さて、「女をなめている」作品に対して怒りを感じるのは誰でしょうか? 少なくとも1つだけ確実な者達がいます。それは「女好き」です。「女」の価値を高く評価し、それを「好きだ」と言える人間からすれば、「女をなめた」作品こそが忌み嫌うべき「女の冒涜者」そのものです。そして、もちろん私も「女好き」の1人です。
そのような観点から言えば、ネギま!の価値とは、魅力的な女の子がたくさん出てきて女をなめずに「女を称えている」点にあると言えます。