「あえて」が通じない問題について、インターネット知の欠陥というアイデアに関するメモ Version2という文書に補足的に書き足しました。
しかし、これは単独で参照されうる話題なので、参照しやすいように独立したコンテンツにまとめ直しておきます。
出典について §
出典は、大塚英志さん編集の「新現実Vol.3」という思想ムックにあります。
ページ下部のアマゾンの情報を見ると、いかにもロリコン漫画雑誌であるかのような表紙が見えて「えっ!?」と思う人も多いかもしれませんが、れっきとした思想ムックです。内容は非常に硬派なものです。このような表紙が付いているのは、一部で過熱するリカヴィネなどのブームの発信源とも言えるアーティストを表紙に据えることで、これも現在の現実であると読者に対して挑発的に突き付けることにあるのだろうと思います。
この中で、大塚英志さんと宮台慎司さんの対談記事中に、以下のような大塚英志さんの発言があります。
p11より
この「あえて」が不成立なことがぼくには問題のような気がする。東浩紀と宮台さんのネット対談で、「あえて」という言葉に対して東浩紀が無反応だった。
(中略)
世代論にはしたくないんだけども、東君なあるいは若い学者に触れていると、彼らの言語体系というか言語感が、一種のプログラム言語としてあるんじゃないかという気がするんです。
つまり論理的な整合性、プログラムとしての単一性の中に彼らの言葉はある。だから「あえて何々をする」という逆説が伝わりにくい。
この部分が非常に印象深いために、「あえて」が通じない問題のように呼んで、時々使っています。
「あえて」が通じないとはどういうことか? §
「あえて」というのは、「(しなくてもよいことを)強いてするさま」(三省堂 『大辞林』より)だそうです。たぶん、あえて、と断って何かを行うと言うことは、それが不適切あると言うことを承知した上で行うということで、その行いが不適切であると意見することは無意味でしょう。これを理解するには、通常のコンテキスト(文脈)とは別に、不適切であることを承知しているコンテキストがあることを把握しなければなりません。
そこで問題になるのが、コンテキストの希薄化という問題です。
本を読む場合は、最初のページから最後のページまで続くコンテキストが存在します。たとえば、第3章を理解するためには第1章で説明された知識が必要である、といった状況はよく見かけます。そのため、部分的な拾い読みは成功する場合もありますが、常に可能というわけではありません。一般論として、本には、コンテキストがあるということを把握しなければ、本は読みこなせません。
一方で、インターネット上の情報に依存している人達は、検索エンジンを活用して必要な情報を集めます。断片的に収集された情報は、相互に全く無関係であり、コンテキストがありません。
その結果、全面的にインターネット上の情報に依存している人達は、コンテキストを意識させられる機会が少なく、そのようなものが存在するという意識も希薄化します。
コンテキストが希薄化すると言っても、コンテキストが消失するわけではありません。本人が持つ自分のコンテキストは存在しますが、それがコンテキストであると意識しなくなってしまいます。
その結果、無意識的に持つ自分自身のコンテキストへの全面依存が起こり、コンテキストの使い分けという能力が退行します。(あるいは発展できません)
それはさておき、もし「あえて」というニュアンスを理解するために、通常のコンテキストとは別に不適切であることを承知しているコンテキストがあることを把握する必要があるとするなら、これはまさにコンテキストの使い分けというスキルを要求される言葉であると言えます。
仮に、これまでの話が正しいとし、かつ、コンテキストの使い分け能力が退行している人がいるとしれば、「あえて」のニュアンスを把握しにくい可能性が考えられます。