インターネット知の欠陥というアイデアに関するメモという文書を書きましたが、根本的に原因と結果の倒錯が見られると気付いたので、書き直してみます。また、誤解されている部分も散見されるので、そこも配慮してみます。
前置き §
アイデアを文書として形にする暇がないので、メモだけ書いておく。
まだ無意味な文章なので、無意味監獄に書いておく。
最近抱え込んでいる疑問 §
インターネット上で、文脈(コンテキスト)をロストしているように見える論客の横行。
一例: Winny事件に関して、包丁が人を殺せるからと言って規制するのはおかしい、というような文脈をロストした主張があちこちに見られる。
彼らの知識量は驚くほど多いが、ずれていて、そのことに無自覚であるように感じられる。
コンテキストは情報量では補えない §
正しくない解釈だとは思うけれど、斎藤環さんの「文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ」という本に、コンテキストと情報量は相容れない互いに反するものだと書いてあった。
(このメモに書かれる現象が文脈病と呼ばれるわけではない。また、この本にこのメモに書かれているような状況や解釈が言及されているわけではない。この本から得ているものは、上記の段落に書いたことのみであり、このメモのその他の段落の文章は、この本とは何ら関係がない。このメモに書かれている対象は、「文脈病」ではなく、「インターネット知の欠陥」と便宜上名づけられた問題である)
これは、知識量が驚くほど多くなると、コンテキストを失うと解釈すると、疑問にぴたりと適合する。
インターネット上に論客から、なぜコンテキストが失われがちなのか? §
検索エンジンや掲示板などの機能を活用して情報を収集する論客は、基本的に情報量を増やすこと(情報量増加戦略)によって論戦に勝とうとする戦略を取っていると考えられる。
多くの場合、情報量は相手を説得する材料となるか、あるいは、相手を圧倒する手段となり得るので、情報量増加戦略は比較的論戦に勝ちやすい戦略と言える。
もし、コンテキストと情報量は相容れない互いに反するものだとすると、情報量増加戦略は、コンテキストの存在感を希薄化する。情報量が限界まで増加した論客の思考からは、相反する性質を持つコンテキストという概念は弾き出され、そのようなものが存在するという実在感すらも意識されなくなる。
情報量増加戦略は、コンテキストが問題にされる局面、または、コンテキストによって切り崩そうと待ちかまえている相手に対する場合には、いともたやすく崩壊し得る性質を持つ。
しかし、コンテキストという概念そのものが思考から弾き出された論客は、自分の論旨が崩壊しているということに気付くことができない危険性も持つ。
インターネット知という概念 §
情報量増加戦略は、従来なら実践が困難な手法であったが、インターネットというツールの出現によって、容易に実践可能となった。その特徴から、情報量増加戦略を便宜上「インターネット知」と呼んみたいと思う。
反意語は、書物による知「書物知」と言うことにしておこう。
「インターネット知」とは、知に対するスタンスの問題を示す言葉であって、インターネットの利用者全てが、「インターネット知」を採用しているとは言えない。
「インターネット知」は多くの場合に強力な説得戦略となるが、コンテキストという概念が希薄であるために、客観的に正しい結果に至るための手法としては十分ではない。
(説得可能であることと、客観的に正しいことは、イコールではない)
またコンテキストが問題とされる局面では、有効な説得手段たり得ない
これは、「インターネット知」の欠陥と見ることができる。
(「インターネット知」には別の角度からの異論があり得るが、ここでは触れない)
「インターネット知」の欠陥に対する無自覚性はどこにあるのか §
もし、「インターネット知」の欠陥が本当にあるとすると、「インターネット知」を採用した多くの論客がその欠陥に無自覚であるのはなぜか?
「インターネット知」を前提とする論客は、ハイパーリンクによって、小さな個別の情報を不連続に飛び回りながら、読んでいる。これらの情報間に、通常コンテキストは存在しない。
一方、「書物知」を前提とする論客は、ページ順のコンテキスト性が与えられている本を読んでいる。
この2つを比較した場合、コンテキスト性を意識させられる頻度が異なることが分かる。
本を読むためにはコンテキスト性を意識することが必須要件として求められ、否応なしにそれを意識させられる。
それに対して、ネットサーフィンをいくら行っても、そこからコンテキスト性を意識させられる機会は少ないことが予想される。
つまり、「インターネット知」を採用した論客は、コンテキスト性の欠落という問題を意識させられる機会がそもそも乏しい。
コンテキスト性の欠落は何をもたらすか §
コンテキスト性を欠落した知は、個別の言葉の正しさによって説得され、言葉の関係性の正しさはあまり意識されない。
これにより、個別の言葉さえ正しく選んでおけば、その並べ方を操作することによって、明らかに正しくない言説を説得することができる。
(連想した言葉: 策士策に溺れる)
このようにして説得された論客は、既に論客というよりは信者であり、エバンジェリストである。
その結果、一人前の論客としては遇されない可能性が生じる。
また、そのような自分のおかれた状況に気付く機会が乏しいという状況もあり得る。
2004年5月16日14時34分頃追記: コンテキストを持つ匿名、持たない匿名 §
匿名には、コンテキストを持つ匿名と持たない匿名があることに気付きました。
この相違は、私が2003年08月13日に書いた2ちゃんねる型匿名掲示板に構造的問題点はあるか?で示した2つの匿名に対応すると考えて良いと思います。
重要な点を引用します。
パソコン通信の匿名性が、別仮想人格を演じる匿名性だとすると、2ちゃんねるの匿名性は、継続した人格性を放棄した匿名性だと言えます。
継続した人格性を放棄、という部分は、コンテキストを持たない、と解釈して良いように思います。パソコン通信時代の論客と、2ちゃんねる型匿名掲示板に慣れ親しんだ論客に感じる性質の違いは、このような部分に原因があるのかもしれません。
とりあえず、結論は無く、アイデアだけメモしておきます。
2004年5月16日14時34分頃追記: 「あえて」が通じない問題とコンテキストの喪失 §
大塚英志さん編集の「新現実Vol.3」という思想ムック(私の入手編、感想編1、感想編2)で印象に残った言葉があります。
それは、「あえて」が通じない、と言うことです。
これが出てくる部分を引用します。(大塚英志さんと宮台慎司さんの対談記事中)
p11より
この「あえて」が不成立なことがぼくには問題のような気がする。東浩紀と宮台さんのネット対談で、「あえて」という言葉に対して東浩紀が無反応だった。
(中略)
世代論にはしたくないんだけども、東君なあるいは若い学者に触れていると、彼らの言語体系というか言語感が、一種のプログラム言語としてあるんじゃないかという気がするんです。
つまり論理的な整合性、プログラムとしての単一性の中に彼らの言葉はある。だから「あえて何々をする」という逆説が伝わりにくい。
「あえて」というのは、「(しなくてもよいことを)強いてするさま」(三省堂 『大辞林』より)だそうです。たぶん、あえて、と断って何かを行うと言うことは、それが不適切あると言うことを承知した上で行うということで、その行いが不適切であると意見することは無意味でしょう。これを理解するには、通常のコンテキストとは別に、不適切であることを承知しているコンテキストがあることを把握しなければなりません。コンテキスト性が希薄である論客は、この2つのコンテキストを適切に使い分けられないために、「あえて」が通じない、という解釈があり得るかも知れません。
ちなみに、直接的に「あえて」という言葉を使ってはいませんが、あえて不適切な文章を書くという行為を行って、そのニュアンスを文章上に示したにもかかわらず、それが全く斟酌されずに不愉快な騒動に巻き込まれた経験があります。この不愉快さは何によって起こったものであるか、と気になっていましたが、意図せずしてここで原因(かもしれない)構造的要因に出会うことが出来たことになります。